徳川四天王とは?ランキング最強は誰?関ケ原以降石高推移と幕末!

地奥川四天王のイメージ写真
徳川四天王は、家康公に天下を取らせた武将としても最高評価で徳川家中でも最強。
が・・さらに、この4人の中での最強は誰だ?

  • ➀:徳川四天王で最強ランキング。
    ➁:関ケ原以前と以後の石高推移。
    ➂:関ケ原以後維新まで継続した?
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井伊大老は「井伊直政」の子孫!

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徳川四天王とは?名前と由来は?

徳川四天王は誰?

以下の4名の武将です。

1:本田平八郎忠勝

徳川四天王の写真
(Wikipediaより引用)

2:酒井忠次

徳川四天王の写真
(Wikipediaより引用)

3:榊原康政

徳川四天王の写真
(Wikipediaより引用)

4:井伊直正

徳川四天王の写真
(Wikipediaより引用)

この4名の武将のことを言います。
他に12名を入れた

「徳川十六神将」

がいますが、これはまた別な機会に。

いつから徳川四天王と言われるように?

徳川四天王とは、いつから言われるようになったのでしょうか?
一説には、この4人から酒井忠次を除いた

「徳川三傑」

ともいうようです。

「歴史上、いつから言われたかこれは、定まっていないようです」

しかしながら、不明であるとしても上に書いた「徳川三傑」は、「榊原家譜」により1586年9月に使われ始めたと書かれているようですね。

一説には、1586年9月徳川家康の名代として、豊臣家に(大阪)に上洛した3名を、上方の武将が「徳川三傑」と言い始めたのが始まりだと言われているようですね。

この3人の武将は、言わずもがな徳川家をその時の立場にした、大功績がある武将なので、おそらく豊臣家の家臣団でも、敬意を持って見られたのだと私個人は思います。

どうも私が思うに、酒井忠次は徳川家康公が人質の時代に、今川家に一緒について行ったり、徳川譜代の家臣で三河で譜代筆頭であったがために、加わったのかな?と思いますがさて?

その後、1894年フレデリック・ヴィクター・ディキンズという方が書いた、「パークス伝」第二巻によると

「井伊、榊原、本田、酒井」

が仏教で言うところの「四天王」と呼ばれていたと書かれているようです。
1894年と言うと、幕末と言うか明治の時代。
パークスというのは、イギリスの当時の日本に来ていた「公使」(外交官)のことだと思います。
この方は、かなり勝海舟と仲が良かったように感じます。

徳川四天王の由来は?

仏教の言うところの、「四天王」から出ているようです。

次に紹介します。

徳川四天王の元になった仏教の四天王とは?

仏教で言うところの四天王は、以下のような定義になるようです。

四天王(してんのう・中腹に在る四天王天の四方にて仏法僧を守護している四神(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)
(Wikipediaより引用)

さらに

持国天 – 東勝身洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
増長天 – 南贍部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多(へいれいた)を眷属とする。
広目天 – 西牛貨洲を守護する。龍神、富単那を眷属とする。
多聞天 – 北倶盧洲を守護する。毘沙門天とも呼ぶ。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天[3]。夜叉、羅刹を眷属とする。
(Wikipediaより引用)

この4人の武将は、帝釈天に仕えるとあります。
また聖徳太子は、戦の際に四天王に祈願して、勝利を収めた際に四天王寺を建立したとあります。

という解釈ならば、徳川家康公に仕える4氏に四天王と言う称号は、まさしく相応だと思うんだな。

徳川四天王筆頭と最強は誰?ランキングをつけてみた!

さて、この4人の武将について、ランキングをつけるとしたら、どうでしょうか?
私としては、上記に書いたように、酒井忠次氏は徳川譜代筆頭と言う立場なので、しかも徳川家康公よりも15歳も年上。
しかも1588年には隠居しています。
という事は、関ヶ原には参陣にしていません。

ということで、勝手な解釈ですが「徳川三傑」について、ランキングをつけてみます。

徳川三傑のランキングは?

これは難しいですが、私の中では「榊原康政」は、残念ながら3番目です。
となると1位は

1:井伊直政
2:本多忠勝

どちらかになりますが、私はどうしても「井伊直政」を一位に推薦したいですね。

なんで?

やはり、以下の理由が挙げられます。

1:井伊の赤備え
2:関ヶ原の抜け駆け先陣

この2つをとれば、私は最強だと思います。
体力的な強さはいざ知らず、もちろんそれもあったでしょうが、余人にないものをあげるとすればやはり

「度胸」と「プライド」

でしょうか。
他の2人についても、もちろん度胸もプライドも充分。
が、ちょっと違うのは、やはり主君徳川家康公からの、信頼が1番だったような気がします。

名門甲斐源氏の「武田家」が滅びた際、武田騎馬軍団に象徴される、赤の甲冑の部隊。
その部隊を徳川家康公から預けられる信頼。

となれば、私の中ではやはり

「井伊直政」

をランキング1番に推薦したいと思います。
歴史好きの方にしてみれば、そんな事は無いとおっしゃる方も、いるかもしれません。
私も歴史ファンですが、いろんな見方があって、良いのではないでしょうか?

徳川四天王の関ケ原以降の処遇と石高は?

徳川四天王と呼ばれる4人の武将は、いずれも最終的には、結構な石高を有するようになるのですが、その経緯を少しだけ表にしてみました。

実は、徳川家康公が関東異風になる前には、徳川四天王については、酒井忠次を除いては、領地が与えられていませんでした。

徳川三傑の3人の所属は

「旗本衆」

の筆頭的な扱いだったようですね。
いわば「青年将校」と言えばいいのかなと、私は思っています。
給料は確か「二千石」だったと、どこかで読んだ記憶があります。(記憶違いなら申し訳ないですが)

幕府用人で、国持でない方の奉行と称する方の最高石高(給料)は

「2000石」

だったと思います。

「子母沢寛」

の小説(勝海舟など)によると、軍艦奉行や時の適塾(阪大)の「緒方洪庵」は「奥医師兼西洋医学所頭取」でしたが、この給金も「2000石」と書かれていたように思います。
歴史を踏襲していたのかな~~とも思うんだな~~(勝手な解釈です)

その後、小田原征伐が終わり、徳川家康公は関東に移封されました。
その時に初めて、徳川三傑は国持ちになったわけです。
石高は以下のようです。

  • 井伊直政:12万石(上野国箕輪)
    本多忠勝:10万石(上総国大多喜)
    榊原康政:10万石(上野国館林)
    酒井家次:3万石(下総国臼井)

結構な石高ですね。
酒井忠次は、隠居してましたので息子の家次が家督を継いでいます。

徳川四天王は関ヶ原以降はどのような石高になった?

気になる、関ヶ原の戦が終了した後の徳川四天王の、それぞれの領地の処遇、石高はどうなったか見てみようと思います。
以下の表になります。

  • 井伊直政:佐和山藩18万石(石田三成の居城)
    本多忠勝:伊勢国桑名藩10万石
    榊原康政:上野国館林10万石
    坂井家次:上野国高崎5万石

と、こんな具合になる様です。
井伊直政は、佐和山で最期を迎えました。
その後子供の直継が家督を相続。
彦根城が完成と同時に彦根藩30万石に、大幅増でしたね。

上のように、徳川三傑または、徳川四天王と言われた武闘派の時代は、この関ヶ原の時代を境にして、終了したように思います。
その後は、本田正信(正純)や大久保忠隣などの、文人派が闊歩するようになるわけです。

戦国の時代は終わりに向け、安定した政権運営に、大きく舵を切っていくそんな時代の波が、この関が原の戦の意味だったのかもしれません。

もちろん、まだまだこの先に、大阪冬の陣と夏の陣が待ち受けていますが!

しかしながら、ほぼ勝負は決していたと思います。
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徳川四天王の藩は幕末まで続いた?考察してみた!

徳川四天王の、関ヶ原以降の藩はどうなったのでしょうか?
明治の、維新の時代まで続いたかどうかの考察です。
個別の藩を見ていこうと思います。

井伊直政祖先彦根藩は?

これはもう歴史上、知らない方はいないと思います。
桜田門外の変で誅された「井伊直弼」は彦根藩の、当時の殿様で、幕府に大老として出向。

天皇の許可を得ずして、日米通商条約を締結。
そのために反感を買ったわけですね。
しかしながら、国替えは一度もなされないで済みました。

井伊直政の、関ケ原での抜け駆け先陣は

「これは我らの戦である!」

やはり最強には、徳川家康公が報いたのかもしれません。

本田忠勝の伊勢桑名10万石はどうなった?

  • 伊勢桑名藩(いせくわな:三重県桑名市)
    播磨姫路藩(はりまひめじ:兵庫県姫路市)
    大和郡山藩(やまとこおりやま:奈良県大和郡山市)
    陸奥福島藩(むつふくしま:福島県福島市)
    播磨姫路藩(2回目)
    越後村上藩(えちごむらかみ:新潟県村上市)
    三河刈谷藩(みかわかりや:愛知県刈谷市)
    下総古河藩(しもうさこが:茨城県古河市)
    石見浜田藩(いわみはまだ:鳥取県浜田市)
    三河岡崎藩(みかわおかざき:愛知県岡崎市)

江戸時代、こんなに回数を多く国替えを幕府から命じられたわけです。
ただでさえ、江戸時代の真ん中あたりは大不況の嵐で、経済が逼迫する中、かなり大変だったようですね。
三河岡崎藩は、どうやら100年以上続いたようです。
そして、ここで明治維新を迎えます。

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榊原康政館林10万石以後は?

榊原康政は、当初は群馬県の館林藩からです。
年表は以下のようになります。

  • 1590年 – 1643年: 上野国館林藩(群馬県館林市)
    1643年 – 1649年: 陸奥国白河藩(福島県白河市)
    1649年 – 1667年: 播磨国姫路藩(兵庫県姫路市)
    1667年 – 1704年: 越後国村上藩(新潟県村上市)
    1704年 – 1741年: 播磨国姫路藩(兵庫県姫路市)
    1741年 – 1871年: 越後国高田藩(新潟県上越市)

こちらも、国替えが頻繁に行われたようですね。
大きく、財政を圧迫したのは、言うまでもないことだと思います。

酒井家館林10万石以後は?

酒井家は以下のように、国替えを余儀なくされました。

  • 下総国臼井藩3万石
    上野国高崎藩5万石
    越後国高田藩10万石
    信濃国松代藩10万石
    出羽国庄内藩15万石

最後は、上記のように庄内藩で、明治維新を迎えることになります。
余談ですが、藤沢周平の小説が私は大好きでしたが、その舞台がこの庄内藩になります。

藤沢周平氏自身も、出身が鶴岡市になります。
まさに地元。

「三屋清左衛門残日録」

だっけかな〜〜これを1番最初に読んで、はまっていったわけです・・藤沢周平さんの世界に!
面白い本なのでお勧めします。

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徳川四天王のような武闘派が今いたら?

今の時代には、武闘派は合わないかもしれません。
それよりは、やはり関ヶ原以降の文官が重んじられるかもしれませんね。

しかしながら、世の中が乱れたときに、リーダーがやはり必要でしょう。
どのようなタイプであろうと、優秀な方は必要です。

徳川家康公を支えた、徳川四天王は立場変わって、今の日本の政権にいるだろうか?
見方を変えれば、わが社の社長を支える人材の中に、このように意気軒昂な、さらに知性も持った、そんな人材がいるか?

そういうことを、歴史から学ぼうとしているのではないでしょうか?
私はそう思います。

だから、歴史と言うのは面白いのであって、また自分が進むべき方向への参考というか、指針にもなるようなそんな気がします。

徳川四天王のこの4人は、もう少し掘り下げて、迫ってみたいですね。
その辺はまた別の紙面で!

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*ヘッダーの写真は塩釜神社に行ったときの風景写真です。

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