真田信繁の家系図と正室側室と子孫その後!戦国時代最強の功績と年表

「真田信繁」の家系図で妻(正室)と側室と子供の名前と人数や子孫のその後解説。

  • ①:真田信繁と部隊の甲冑は赤備え
    ②:旗印の六文銭の意味解説。
    ③:真田丸と大坂夏の陣と最後。
    ④・墓所と家紋。
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「真田信繁」は戦国最後の英雄です!

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「真田信繁」の家系図から見る正室と子供の名前

六文銭

「真田氏」
は、「清和源氏」の流れを汲んだ
「滋野氏」から
「海野氏」
に続き、「信繁」の曽祖父

「真田 頼昌」(さなだ よりまさ)

が真田氏の祖と言われます。
*本説が有力とのこと。

その後「真田 頼昌」の子の
「真田幸隆」
が信濃の国
「小県郡真田郷」
を領したことで
「真田姓」
を名乗ったといわれます。
この祖父「幸隆」の時代に甲斐の
「武田氏」(武田信玄)
に使えるようになりました。

「真田信繁」の家系図から見る正室と側室とその子供

真田信繁の肖像

「真田信繁」
の家系図は以下。

真田信繁の家系図

  • 正室(妻):竹林院
    側室:3名
    子の数:三男七女

「真田信繁」の子孫その後の処遇!江戸時代は?

「真田信繁」の

  • ①:正室・側室と子の名前とその後の一覧
    ②:仙台片倉家と仙台真田氏の関係

について解説。

「真田信繁」の正室・側室と子供の名前とその後の一覧!

大坂夏の陣含めてそれ以降江戸時代も含めて
「真田信繁」
の子孫のその後を以下の表に一覧にしてみました。

正室:竹林院大谷吉継の娘
 嫡男:幸昌(大助)通称「大助」大坂夏の陣落城で「自害」当時13~16歳(諸説)
 二男:守信(大八)九度山蟄居時に誕生。京都「片倉家屋敷」に避難。その後伊達家家臣
側室:隆清院豊臣秀次の娘
 三男:幸信大坂夏の陣二か月後に京都で誕生。出羽亀田藩380石。三好左馬之介幸信と称する。
 五女:なほ出羽亀田藩第2代藩主岩城宣隆の側室のち継室。
側室:堀田興重の娘または妹とも。
 長女:阿菊(おきく)信濃国長窪宿(長野県小県郡長和町)の本陣・石合十蔵に嫁ぐ。
 次女:於市九度山で死去
側室:高梨内記の娘
 三女:阿梅(おうめ)仙台藩家臣片倉重長の継室。
母不明
 四女:お弁彦根藩士青木朝之室
 五女:あくり蒲生 郷喜(がもう さとよし)室(諸説あり)
 六女:阿昌蒲「片倉定広」室。本片倉家は伊達政宗正室愛姫の生家田村氏。
 七女:おかね「石川 貞清」室。(茶人)

大坂夏の陣で亡くなった
「真田大助」
は何もまだね~~
そう思うのですが、戦国の悲しい時代ですね。

「真田信繁」の子供と仙台片倉家との関係と逸話!

大阪城落城の前後で
「真田信繁」隊と
伊達政宗隊の中でも勇猛な
「片倉小十郎重綱」
とは
「慶長20年5月6日の誉田の戦い」
で戦いました。
「片倉重綱」
は先鋒。

「真田信繁」
はその戦いぶりに感嘆!
大阪女の決戦前に
「子供たちを送り付けてきた」
と言われます。
(諸説ありますが美談ということで)

が・・のちのことには
「名を名乗らず投降したとも」
いずれその戦のあとに京都の
「片倉屋敷」

「四女お弁、七女おかね、八女(名前不明)、そして次男大八」

が送り付けられ、その後宮城県(伊達藩)の片倉家の居城
「白石城」
に移動してそこで
「仙台真田氏」
ができました。

仙台真田氏の系図はこちら!

これは驚きました。
しかも、分家の方々は現在もお住まいになられてます県内に。

「真田信繁」の戦国時代の功績!したこと年表で解説

真田信繁の銅像

「真田信繁」
は幼少時と通称には複数の名前が。
通称は
「真田源二郎」
兄の信幸が
「真田源三郎」
を名乗ったと。
「真田幸村」
とは名乗っていなかったようで、こうれは後世の作り話ともいわれますが諸説あるようです。

永禄10年:1567年元亀元年1570年との説も:真田昌幸次男として誕生
父昌幸は三男:武藤氏の養子:武藤喜兵衛を名乗る
天正3年:1575年長篠の合戦:昌幸:この戦でその後真田家を継承する
天正10年:1582年3月織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡:真田氏は織田氏に帰順
旧所領安堵も信繁は滝川一益のもとに人質となる
  6月本能寺の変後上杉氏・後北条氏・三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争い
天正13年:1585年当時上杉氏に帰属の真田氏と第一次「上田合戦」この時越後人質
のち徳川氏に従属:
    同年6月信繁領地上田市西塩田の前山村で、上田領全体で千貫以上を所持とある。
豊臣政権下昌幸「秀吉公」に帰順。信繁は大阪で人質:のちに正室竹林院を迎える。
天正17年:1589年北条氏直が裁定に逆らって名胡桃城を攻めたことがきっかけで小田原征伐開始
1590年小田原征伐に参戦
文禄の役名護屋城に「700人」の部隊で在陣。三ノ丸御番衆の御馬廻組の中に信繁の名がある。
文禄3年:1594年従五位下左衛門佐に叙任
豊臣政権下秀吉の馬廻衆:1万9000石の知行を有していた。
慶長5年:1600年関ヶ原の戦い:西軍で参加:兄信之は東軍で袂を分かつ「犬伏の別れ」
居城上田城に籠り、38,000の徳川軍を城に立て籠もって迎え撃ち「秀忠」遅参。
西軍の敗北2月12日に上田を発し高野山にある蓮華定院に入り、のち九度山に移る。
慶長16年:1611年父「昌幸」死去(無念)のち出家「好白」と名乗る
慶長19年:1614年方広寺鐘銘事件:国家安康の文字
一触即発で豊臣方は浪人をかき集める。九度山脱出で大阪城に入る。
慶長19年:1614年大坂冬の陣:積極策は拒否で籠城が決まる。
真田丸を気づき寄せ手を次々と撃退。天下にその名をとどろかせる。
しかし講和で外堀が埋められ真田丸も取り壊し
慶長20年:1615年大坂夏の陣
  5月6日道明寺の戦い:伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。
後藤又兵衛が討ち死に。
  5月7日最後の戦いを挑む。
  同日安居神社(大阪市天王寺区)の境内で越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見
「この首を手柄にされよ」といって最後を迎えた。

「壮絶」
な人生です。

真田信繁の「道明寺の戦い」と最後の日!徳川家康公の本陣をつく作戦!

茶臼山本陣跡

「真田信繁」最後の日と前日

  • ①:道明寺の戦い
    ②:家康公本陣突撃と最後。

について。

5月6日「道明寺の戦い」!

作戦ではすべての隊がそろってからの攻撃。
のはずが・・

  • ①:「真田信繁隊」の到着が遅れるハプニング。
    ②:「毛利勝永隊」は現場にいたが真田隊を待っていた
    ③:後藤又兵衛は道明寺につく前に全滅して討ち死に。

作戦の手違いがあったと。
遅れの原因は濃霧。

その後退却で「真田隊」はしんがりを務める。
追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、全軍の撤退に成功する。

「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」

は有名。
戦場でこの言葉を聞いた敵軍は恥ずかしかったべな~~

5月7日最後の決戦!さらに混乱を極める作戦!

茶臼山本陣跡

5月7日は決戦。
作戦は以下。

  • ①:右翼として真田隊
    ②:左翼として毛利隊

この体系で四天王寺・茶臼山付近に布陣。
具体的には

「射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させる」

そののち

「明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させる」

という案。
しかしこの案もうまくいかなかった。
はやる気持ちが、言うことを聞かないんですね。
戦場では、冷静に離れないんだな~(命かかってるから当然かと)

この時点で
「真田信繁」
はすでに武運が尽きたことを悟ったと。

そして有名な突撃である
「目指すは一点徳川家康の本陣のみ」

  • ③:真田隊
    ④:毛利隊
    ⑤:明石隊

他豊臣の全軍が奮戦。
真田隊は、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上を突破し

「家康公本陣」

に二度も攻撃を敢行。
しかし多勢に無勢で井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて総崩れ。
徳川本陣の
「馬印」
が倒されたのは
「三方ヶ原の戦い」
以来。
二度とも「武田氏」にゆかりの部隊とは因縁ですね。

最後のは上の表に書いたようです。
最近は別な説も出てきたようです。
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「真田信繁」の家紋と墓の場所

真田幸村本陣

「真田信繁」の

  • ①:家紋「六文銭」の意味
    ②:墓所紹介

について解説。

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「真田信繁」の家紋は「六文銭」!仏教の六道を意味!

「真田氏」
の家紋は有名な
「六文銭」

六文銭の旗印

この家紋は祖父の代
「真田幸隆」
から使用されます。

「六文銭」
の意味は以下。

  • ①:六は仏教の六道にちなみ「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の世界を意味。
    ②:六個の銭は死人が三途の川を渉る渡し銭の意味。(棺に入れる)

相手にしてみれば戦場ではとても不気味!
死を覚悟した部隊と戦うのですから。

通常は銭に模様はないのですが
「真田信繁」
が神社に奉納した旗には
「永楽六文銭」
「永楽通貨」
が描かれていると。

六文銭の旗

お金の模様が違うかと思いますが、こんな感じかと。

「真田信繁」の墓所は京都知恩院!

「真田信繁」
の墓所は複数確認されます。
中でもこの二か所がどうやら趣がありそうです。
が・・非公開です。

  • ①:龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市)
    ②:妙心寺塔頭養徳院(京都府京都市)

非公開では、一般には参拝は不可能です。
私は宮城県なので白石市に田村家の墓所があるのですが、そこに供養塔が。

③:田村家墓所(宮城県白石市)
こちらには
片倉定広(田村清顕の甥宗顕の子)に嫁いだ五女・阿昌蒲の縁にちなんで墓が建立されたとあります。

白石城観光の際はこちらも。
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「真田信繁」の甲冑と真田隊は赤備えだった!

赤備えの兜の写真

徳川家康公が最初に
「馬印」
を倒されたのは「三方ヶ原の戦い」で屈辱は武田軍の
「赤備え」
です。

二度目が「真田信繁隊」の
「赤備え」

武田氏滅亡で、武田氏の家臣を登用し
「井伊直政」
に預け
「井伊の赤備え」
と言われました。

よもや、大坂夏の陣で
「赤備え」
を敵に見るとは思いもしなかったかもしれません。

「真田信繁」
はその武田の流れを完全に、しかも父
「昌幸」
の思いを貫いたのだと思います。

真田の庄から駆け付けた旧臣は古き赤備え。
それを見た家康公は
「あれこそが本当の赤備えだ」
と。

本当かどうか不明ですが兄の
「信之」
の城下「上田」では甲冑作りで大急がしだったとか。
伝統の赤備えを作る職人はそうそういなかったとも。

さらに、武田氏由来でなければ真の赤の
「甲冑」
はできなかったかもしれませんね~

そうでないかもしれませんが、個人的にはロマンを感じます。

「真田信繁」にまつわる逸話!これこそ名将の証!

真田信繁記念電車は赤備え

いろんないつ岩がありますが、その中から2,3引用します。

『山下秘録』
「家康卿の御旗本さして、一文字にうちこむ、家康卿御馬印臥せさすること。異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり真田備居侍を一人も残さず討死させる也。合戦終わりて後に、真田下知を知りたる者、天下に是なし。一所に討死にせるなり。」

『言緒卿記』(山科言緒)
「五月七日、癸丑、天晴。大坂落城す。天王寺にて、真田、たびたび武辺、其の後、討死なり」

『大坂御陣覚書』(宇佐美定祐)
「真田は味方の諸軍乱走るも機を屈せず、魚鱗に連なりて駆け破り、虎韜に別れては追い靡き、蜘蛛手十文字に掛け破らんと、馬の鼻を双べて駆け入り、其の速かなるは疾雷の耳を掩ふに及ばざるが如し。」
(wikipediaより)

戦国の世の最終戦にふさわしい
「決戦」
で散ったと思います。
指物家康公も肝を冷やしたことでしょう。

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「真田信繁」の感想とまとめ

「真田幸村」
といえば、。私が小さい時からテレビの時代劇でやっていたのを覚えています。

①:真田十勇士

がとくに有名ですね。

  • 「猿飛佐助」
    「霧隠才蔵」
    「三好清海入道」

などなど。
たしか「田中邦衛」さんなども出演されていたような‥古いお話です。
子供たちの間ではまさしく
「ヒーロー」
でした。

「大坂夏の陣」

などは、知る由もなかったです‥小学生だったので。
数年前の「大河ドラマ」で
「真田丸」
は面白かったですね~

それと「司馬遼太郎」さんの
「城塞」
のなかでも出てきます。
この小説は特におすすめです。

徳川家康公が中心ですが
「真田丸」
の記述も詳しく出てきます。

とても面白いです。
その中に「上州上田」の甲冑職人の記述もあったやに記憶します。
兄「信之」が甲冑を送るそんな風にも取れる書き方だったような・・
(記憶です)

英雄でした!

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*へっだーの写真はわたしが撮影した塩釜神社境内にある金属蟷螂の写真です。
とても勇壮で大きなものです。

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