加藤清正・戦国時代の活躍と血脈を辿る家系図で見る子孫とその後

「加藤清正」は賤ヶ岳の七本槍の一人で虎伝説もある屈強の武将。
家系図と戦国時代の功績を年表で解説。

  • ①:加藤清正の家系図で見る子孫その後
    ②:戦国時代の功績年表で関が原も解説
    ③:改易の理由と種々の逸話
    ④:家紋や兜や墓の情報
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加藤清正は太閤殿下への忠義で関が原では大いに揺れた武将に感じるな~~!

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「加藤清正」公の出生と出身地!親と子の家系図

加藤清正公の肖像画
(wikipediaより引用)

「福島正則」公は
「永禄5年(1562年)6月24日」
に誕生。
幼名は「虎之助」
と言いました。

生まれ場所は
「尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区))」
と言われ刀鍛冶を営む加藤清忠の子として生まれたという。
母は「鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。
が、実はこのお母さんは「福島正則公」と同じ
「大政所」
の妹とも、実は親戚ともいわれます。
その縁で、大河ドラマでのワンシーンですが
「市松(福島正則)」

「虎之介」(加藤清正)
が豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)
の馬の後を並んで歩いてるシーン・・あったな~~~と。

家系図は以下です。

加藤清正の家系図

*wikipediaやネット上の情報をもとに私(管理人)が作成しました。
分からないところは線でつなぐことができませんでしたがこの存在は確かなようです。
見づらい点や間違ってる箇所があっても、参考ということで容赦ください。

「福島正則」公の戦国時代の功績を年表で解説

熊本城の風景写真

「加藤清正」公
の戦国時代から関ヶ原の戦いなど、怒濤の人生を以下の表にかいつまんでまとめてみました。
波乱万丈ですね~~

永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子と誕生・母は大政所と姉妹とも・
永禄7年(1564年)父死去で3歳の時母とともに津島に移る
天正元年(1573年)秀吉に呼称として仕える:170石
近江山崎片家の娘を娶り、正室に迎える
天正8年(1580年)9月19日播磨国神東郡内に120石を与えられる
天正10年(1582年)4月14日冠山城攻めで一番乗り竹井将監を討ちとる功績
天正10年(1582年)本能寺の変:山崎の戦と翌年の賤ケ岳の戦い参加:武功で「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石。
天正13年(1585年)7月、秀吉関白に就任:従五位下・主計頭に叙任
天正14年(1586年)九州平定に従う。
天正16年(1588年)庇護の国半国領主。19万5,000石:隈本城を「熊本城」と改名
文禄元年(1592年文禄・朝鮮へ出兵
慶長2年(1597年)慶長の役:再び朝鮮出兵
慶長3年(1598年)家康の養女を継室に迎える
慶長4年(1599年)月28日、前田利家が死去:石田三成暗殺未遂事件を起こすも失敗
庄内の乱の首謀者集院忠真を支援発覚で家康公の逆鱗にふれる
慶長5年(1600年)会津征伐に帯同を許されなかった。
同年:関ヶ原の戦い参加せず肥後の国で謹慎:会津征伐に反対もした。
実際は黒田如水とともに東軍で出陣し九州の西軍を破る功績
関ヶ原の戦いの功で:肥後の国52万石(実質石高は79万石)
慶長8年(1603年)豊臣姓を下賜
慶長10年(1605年)従五位上・侍従兼肥後守に叙任
慶長11年(1606年)榊原康政の嫡男・康勝に娘のあまを嫁がせる
慶長16年(1611年)3月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見で和解をあっせん:徳川頼宣の護衛役
同年船内で発病し(後述)、6月24日に熊本で死去:享年50歳
その後三男・忠広が跡を継ぐ
寛永9年(1632年)加藤家は改易:忠広堪忍分1万石で出羽庄内藩お預け:
その後の加藤家後述します。

亡くなったのは享年50歳とはあまりにも早く感じます。
なので、二条城での面会の後の帰国の時点でのあらゆる憶測を呼ぶことに。
真相はどうなんでしょうか?

歴史の事実に反して思いをはせるのは自由ならという前提で、個人的なロマンで思えば
いずれにせよ、もう少し長生きして
「大坂の陣」
での「福島正則」との連合などがあると面白かったな~~と感じます。
「たられば」
ですが・・

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「加藤清正」公の関が原!豊臣恩顧の大名の空転

慶長3年(1598年):秀吉公死去。
この時「加藤清正」公は
「慶長の役」
の真っ最中。
即帰国。

しかし、肥後の国はこの戦で疲弊。
この年、「徳川家康公」は加藤清正公の懐柔策?
徳川家康の養女を継室に迎えます。
これは「福島正則」の子「正之」と同じ手段。

が・・「庄内の乱」の首謀者である
「伊集院忠真」
をしていたことが発覚し家康公は清正の上洛を禁止。

慶長5年(1600年):大坂で家康公に弁明

も、家康公の怒りは収まらず会津征伐への帯同の許しは出なかったとあります。
が・・「石田三成」挙兵によって東軍に参加を認め結局は
「黒田如水」
らとともに、九州の西軍加担大名の平定に参加。
結果は、九州の西軍大名の大半を打ち破ることに成功した。

この功績で戦後、旧小西行長領の「肥後南半分」を加算
「肥後の国52万石」(実質石高79万石)
という大大名に。

私が住んでる宮城県の伊達領「62万石」に迫る勢い。
実質の石高では抜かれています。

盟友の「福島正則」は
「関ヶ原の戦い」
では、縦横無尽に暴れまくりましたが、おそらくは
「加藤清正公」
にしても、自身はそうありたかった・・武人として・・そう思ったかもしれません。

「加藤清正」公の死因!二条城の警護と因果関係?

熊本城の風景写真

「加藤清正」公
がなくなったのは
「慶長16年(1611年)6月24日」

この年の3月に「家康公」と「豊臣秀頼公」の謁見が京都
「二条城」
で行われました。
楚の警護を引き受けた後の帰国途中の船内で
「発病」
とあります。

実はこの会見には「加藤清正公」の次女「八十姫」の婿殿
「家康公」の十男
「徳川頼宜公」(尾張藩主:御三家)
の警護として徳川家の家臣としての参加。
「豊臣秀頼公」
の「豊国神社」への参拝などの警護に当たったとあります。

一報の福島正則は全く別の立場。
そんなこともあって、なんとも胡散臭いうわさもあるようです。
若かったですね。
50歳ですから、ちょっと早いと思います。
もう少し活躍してほしかったな~~と思うんだっけな~~。

「加藤清正」公の墓と菩提寺

熊本城の風景写真

「加藤清正公」
の墓所は複数ありますが、
「熊本市西区花園の発星山本妙寺の浄池廟」
が、その場所になります。

位牌は複数個所に

  • ①:山形県鶴岡市丸岡の金峰山天澤寺
    ②:東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)

です。
他には供養塔もあります。
私は宮城県に在住ですが、山形県の庄内には年に数回行くので
機会があれば参拝してみたいな~~とも思います。

さすがに熊本城まではいけないな~~
でも、素晴らしくきれいなお城ですよね~~

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「加藤清正」公と熊本城と兜や銅像の写真

熊本城の風景写真

「加藤清正公」
と言えば「熊本城」
築城の名手らしい素晴らしいお城です。

「ブラタモリ」
でも紹介されました。
あの手この手を考えた、白のリスク管理のさすがプロだな~~と感心した次第。

籠城戦や守りのポイントには感心させられました。
特に「抜け道」は素晴らしかったように記憶しています。
熊本城の写真は無料公開の写真がたくさんあるので本記事内の随所に貼っておきます。

「加藤清正公」
の銅像の写真は以下。

「加藤清正公」の銅像は熊本城のすぐそば!

「加藤清正公」
の銅像は熊本城のすぐそば。
「熊本県熊本市中央区花畑町」
内です。

熊本城脇の加藤清正公の銅像

もう一か所あります。

愛知県名古屋市中区、名古屋城の東南隅櫓を眺める梅園近くに立つ
「加藤清正公石曳銅像」
です。

名古屋城の加藤清正公の銅像

「慶長15年(1610年)」
の名古屋城の普請での活躍を記念したもの。
名古屋城は次女の婿殿「徳川頼宜公」(御三家)の居城になりました。

こちらの銅像は日蓮宗本妙寺に1934年(昭和9年)に設立されたもの。
が・・一時期は(戦時中)没収されていたのですが
「1960年」
に復元されたものです。
槍を持った勇ましい姿。

加藤清正公の銅像

このような勇壮な姿だったんだと思います。

「加藤清正公」の兜は長烏帽子形兜

この兜が特徴です。
「長烏帽子形兜」
と言われる兜。
長いです。

長烏帽子形兜の写真

この兜今残っているようですね。
「長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)」
という兜の名前。

代わり兜の流行で朝鮮出兵の際に蔚山城の戦いで被ったと伝わります。
現在は徳川美術館が所蔵しているということ。

残ってるだけでも素晴らしいですね。
素晴らしいです。

「加藤清正公」
は身長が190㎝もあったという大男。
このなが~~い兜で、ますますでかく見えたことかと。
そこを強調した
「変わり兜」
だったのかもしれません。(勝手な推測)

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「加藤清正」公のの末裔!子孫その後

熊本城の風景写真

「加藤清正公」

  • ①:肥後の国熊本藩のその後:改易の理由
    ②:江戸時代から明治までの子孫

について紹介。

「加藤清正公」死去後の肥後の国が改易になった理由と子孫その後

「加藤清正」
には男子の子供が3人。

  • ①:虎熊:早世
    ②:忠正:早世
    ③:忠広(幼名虎藤):家督相続

上の二人が早世したために
「忠広」
が肥後の国熊本藩(52万石)を相続しました。
「清正公」
死去の折は江戸詰めで11歳。

家臣団の奔走の甲斐あって、そのまんま
「肥後の国」(熊本藩)
を相続しました。

「慶長16年(1611)9月」
「忠広」
は国元(熊本)に入るのですがお目付け役も一緒。
「藤堂高虎」
が指名されました。

慶長18年(1613)2月
徳川秀忠公より
「忠」
の一時を賜り
「忠広」
と名乗ります。

翌年秀忠公の養女「琴姫」を娶る。
慶長19年(1614)
大坂冬の陣に参戦も藩内でどうやら割れていたようです。

元和4年(1618)
藩内の権力闘争が激化で将軍が直々の裁定という事態に。
寛永9年(1632)
秀忠死去で3代将軍
「家光」公
の世に。
家光の弟「忠長」と「忠広」が懇意の仲が問題視。
この手の問題が災いして
「改易」
の理由になったといわれます。

  • 「平素の行跡正しからず」

という理由のようですが、理由なんぞはいかようにでも。
要は「家光公」にとっては目障りの存在だったと。

その後「出羽丸岡」に一代限りの
「1万石」
の所領で22年ほどを悠々自適(?)の生活を送ることに。

承応2年(1653)
死去。

享年53歳。

忠広の心中や如何に?
父「清正公」存命なら、こんなことはなかったかもしれませんが、時代はどんどん進んでいきます。

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「加藤忠弘」以後の子孫はつながっていったか?

「忠広」
の後は

①:長男:光弘(忠広没後一年後に死去)
②:次男:正良は藤枝姓を名乗るも「忠広」の後を追い自刃
③:献珠院:(多分亀姫かと):忠広の死から6忠広の死から6年後に許され、叔母の瑤林院(忠広の姉、徳川頼宣正室)のはからいで旗本・阿倍正之の五男・正重に嫁すも32歳の若さで死去。

が・・「忠広」は他にこの地丸岡で二子を授かったとあります。

④:熊太郎光秋
⑤:女子

公にすることはできなかったと。
が・・この子孫は庄内で
「5000石」
という大きな庄屋として存続。

「大庄屋・加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続」

とあります。
明治年間には時の
「明治天皇」
が屋敷に訪れるという栄誉も。
さらに明治の時代に

「加藤セチ(1893年 – 1989年、日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号として知られる)」
を輩出。(理化学研究所)

が・・この方を最後に、本家の加藤家は断絶。
しかし、支流としての加藤家は家系としては多くが存続しているという事実があります。

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「加藤清正」公の虎狩りのエピソード!

熊本城の風景写真

「加藤清正」
のエピソードで「虎退治」があります。

「虎」
はご存じのように日本には生息が確認できません。
それ映えその時代でもそのようでした。
「豊臣秀吉公」
は虎を欲したとありますが、朝鮮出兵の際に
「虎」
を獲って献上(毛皮など・・)したことは有名です。

中でも
「加藤清正」
は虎との一騎打ちが有名で虎狩りと言えば
「加藤清正」
が有名。

エピソードはこんな内容。

  • ①:馬が虎に食われた
    ②:家来も被害に。

そこで清正公は虎狩りに・・見事火縄銃で一発で仕留めたという。
が・・豊臣秀吉公は出兵の大名には
「虎狩り」
の命令を。
「黒田長政」、「島津義弘」も虎狩りをおこない献上したことが知られています。

「加藤清正」公の家系図や子孫など感想とまとめ

「加藤清正公」
は意外なことなのですが
「豊臣秀吉」
の期待は戦での勇ましい働きよりも
「財務官僚」
としての手腕だったようです。

「太閤殿下」
の勇ましい「小牧・長久手の戦い」でもわずか150名での参戦とか。
多くの国でも
「代官」
的な任務が多かったようですね。
出来た方だったんだと思います。

であればこそ「徳川幕府」からは一目置かれる存在で、方向として
「目ざわり」
な存在だったのかもしれません。

「家光」公
の時代に、その伝家の宝刀が抜かれたわけです。

「加藤清正公」
は、築城の名手。
名古屋城や今現在名城と言われる
「熊本城」
は素晴らしいお城です。

綺麗なお城ですね。
今の時代に生きていればどんな方だったんでしょうか?

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*ヘッダーの写真はわたしが撮影した気仙沼「巨釜半造」の写真です。
加藤清正公のように荒々しく勇壮な風景に関j煮ます。

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