北条早雲の家系図わかりやすく後北条氏解説!子孫や年表で領地解説!

夏の鳴子ダムの風景写真
北条早雲の家系図でわかりやすく後北条氏解説します。

・家系図で執権北条義時氏家系との違い。
・年表で領地支配拡大したこと解説。
・小田原城と子孫その後。

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3代北条氏康の時が最高の石高かと。

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北条早雲の出身(出自)をわかりやすく!

「北条早雲」
は、鎌倉殿の13人に出てくる「北条義時」一門とは、全く別な家系です。
なので、区別するために

「後北条氏」(小田原北条氏)

とも言われます。

北条早雲の父は「伊勢盛定」で二男!

北条早雲肖像画
(wikipediaより)

「北条早雲」
は、最初は「伊勢盛定」が父なので
「伊勢」
を名乗っていました。
正式には「伊勢盛時」で、号を
「早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)」
と言います。

北条と名乗るようになったのは、早雲の死後、嫡男(後北条二代)氏綱の代になってから。
署名は主に

  • ➀:伊勢新九郎
    ➁:伊勢宗瑞

と書かれています。
「諱」
は「盛時」が主流で、通称は「新九郎」です。

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伊勢新九郎の伊勢氏は室町幕府の政所執事が出自!

一介の素浪人からの、サクセスストーリーが、先行する
「北条早雲」
ですが、実は最近の研究から、そうではないことが、有力のようです。
「早雲」
の父の、伊勢氏は、同じ伊勢氏の備中国を所領とした支流で、備中荏原荘(現井原市)または京都で生まれて、しかも

「荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)」
(wikipediaより)

が、確定したとあります。
しかも父の「盛定」は、幕府政所執事伊勢貞親と共に、8代将軍足利義政の申次衆として、重要な位置にいたことも判明。
決して、一介の浪人ではなかったわけです。

「井原市神代町の高越城址」
に「北条早雲生誕の地」の碑がたってます。

北条早雲の銅像

本家の備中伊勢氏は、今川氏と家格がそん色ないため、姉の「北川殿」が、今川義忠の正室に入ったと。
従って、「今川氏親」は甥にあたります。

「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れると書かれています。
これは、幕府公文書での記録。

幕府奉公衆の時代には、建仁寺と大徳寺で禅を学んだと。
これがのちの二十一箇条につながってるかもしれませんね。

北条早雲の家系図でわかりやすく系図を解説!

家系図は以下。

北条早雲・後北条氏家系図

父:伊勢盛定で早雲は次男

です。
実は、この伊勢氏は

「本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。」

とあります。
平氏なのですね。

伊勢から北条氏への改名はいつ行われた?

時代が、二代「氏綱」の時。
改名理由は以下の解説。

  • ➀:上杉など旧関東勢力から侵略者とみなされていた
    ➁:相模国主として旧北条氏の名跡を継承

という体裁で「北条」を宣言。
しかし、敵対勢力の上杉氏や長尾上杉氏などは、「伊勢」と呼んでいたそうで、この辺は意固地になっていたようで。

  • ・箱根権現の宝殿の修造完成:大永3年(1523年)6月12日付の棟札
    ・公家の近衛尚通の日記『後法成寺関白記』:大永3年(1523年)9月13日

なので、この三か月の間に

伊勢 → 北条

に改名したと。

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北条早雲のしたことを年表で解説!

北条早雲の人生の大所を以下の表に、まとめてみました。

康正2年(1456年)生誕:1432年(永禄4年)説もあるが、近年は康正2年が定着。備中荏原荘に居住
応仁元年(1467年応仁の乱。
長享元年(1487年)9代将軍足利義尚の奉公衆
文明8年(1476年)今川義忠が遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死。
嫡男龍王丸を後目にする調停姉北川殿に加担で調停。「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と翻弄。
嫡男龍王丸嫡男龍王丸を成人まで小鹿範満補佐で決着*幕府の命令説が最近は有力
文明11年(1479年)将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を発行
その後9代将軍義尚に仕えて奉公衆
長享元年(1487年)駿河へ下向した宗瑞は龍王丸を補佐する:15歳でも補佐をやめない範満を討つ。
二年後龍王丸「氏親」を名乗り今川家当主
領地を持つ(今川家家臣)早雲は功績で伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられた(諸説あり)
延徳3年(1491年)4月申次衆として室町幕府に復帰
長享元年(1487年)小笠原政清の娘と結婚「氏綱」誕生
明応2年 1493年伊豆堀越御所「茶々丸」襲撃
明応3年(1494年)~今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻、中遠まで制圧。連携して領国拡大。
明応4年(1495年)9月小田原城奪取。*年月諸説あり。
文亀年間(1501年 – 1504年)今川氏の武将として三河に侵攻も失敗
永正元年(1504年)8月武蔵立河原の戦いで山内顕定に勝利
永正3年(1506年)相模で検地を初めて実施して支配を強化
永正6年(1509年)以降今川氏の武将としての活動は見られず相模に集中:今川氏とは良好
永正9年(1512年)8月相模豪族「三浦氏」本拠岡崎城攻略。鎌倉を手中にする。
永正13年(1516年)7月三崎城陥落で名門「三浦氏」は滅びた。
永正15年(1518年)家督を嫡男氏綱に譲る。
永正16年(1519年)64歳:韮山城で没:菩提寺は神奈川県箱根の「早雲寺」

大所を年表にしてみましたが、その中でも大きな転機があります。
「北条早雲」
自身は、あくまでも今川家の家臣で武将であることを、自任していたようです。

小田原北条氏五代の墓
(wikipediaより:小田原北条氏5代の墓)

然し周囲は、そうは見ておらず、お互いに巨大勢力を利用した
「同盟関係」
のようなものと、理解しました。
その中でも、自分が切り取った領国は、自身で納める気概だったんだと。

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北条早雲の功績で転機になった戦い!

「北条早雲」
の転機になったベスト3を個人的にチョイス。

  • ➀:今川家「龍王丸」家督相続問題への介入。
    ➁:伊豆への討ち入りで「茶々丸」追放。
    ➂:小田原城奪取に成功。

この三つを上げておきます。

今川義忠嫡男「龍王丸」家督相続の仲介役!

「北条早雲」
の姉の「北川殿」の嫁ぎ先の
「今川義忠」
が、文明8年(1476年)、遠江の塩買坂において遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。

嫡男の「龍王丸」は、まだ幼少。(そのとき6歳説)
周辺国が色めき立ち、介入を強化。
しかも家中も二分。

  • ➀:「龍王丸」:不利
    ➁:小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立派

で二分。
どう見ても➁が有利。
そこで「北条早雲」が

「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」

とだましたとあります。
が、これで調停がなり、「龍王丸」成人(15歳:元服)までの間は
「小鹿範満」
が代行として後見する。

この案が成立で、反対派は兵を引くことに。
めでたし・・なのですが、そうは問屋が。

長享元年(1487年)元服後も「小鹿範満」が、家督を戻そうとしないことに対応。
石脇城(焼津市)に入り同志を集め、同年11月に兵を起こし、館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺害。
「龍王丸」
は新たに「氏親」を名乗り、今川家当主。

褒美に早雲には、伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領(富士下方十二郷)を与えられた。
しかし、興味深い内容が‥
延徳3年(1491年)5月:申次衆として室町幕府に復帰した。

とあります。
そのまま、その地に落ち着いたわけではないのですね。
この後継問題には

文明11年(1479年)、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。

とあります。
この解決は、室町幕府の趣旨を、反映したものだったのかもしれません。

足利茶々丸事件(堀越公方)!伊豆討ち入りの作戦は見事!

これはちょっと複雑。

  • ・享徳の乱で鎌倉公方足利成氏が幕府に叛いたので、幕府は今川家に「足利成氏」を討つことを命令。
    ・今川は鎌倉を占領
    ・足利成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力になる
    ・将軍義政は成氏に代わる鎌倉公方として異母兄の政知を送る
    ・が・・両者和睦のため「政知」は宙に浮き伊豆にこもる。
    ・延徳3年(1491年)に政知が没後、茶々丸が堀越公方を継ぐ(伊豆を支配)

実は茶々丸は将軍義遐にとって、母と弟の仇
それを幕府即金の経歴を持つ「北条早雲」に、命令したと。

その際、自ら伊豆修善寺に湯治に行って、地理関係を見聞したと言われます。

伊豆討ち入りマップ
(wikipediaより)

上のマップを参照。
自らの手勢200人と、今川氏から借りた300人の合わせて500人が、舟をこいで海岸線に上陸。
一気に「堀越御所」を急襲し、一気に勝負はついたと。

後に、伊豆一国を手に入れ、「伊豆国韮山城(現伊豆の国市)」を居城にしたと。
「茶々丸」
の件はこの先もあるようですが、この辺で。

小田原城奪取で大きく飛躍!作戦勝ちで大きな虎に!

小田原城の写真

小田原城の当時の城主は
「大森藤頼」
大森氏は、扇谷上杉氏の家臣で小田原城主。
北条機によると「早雲」は、「大森藤頼」にたびたび贈り物をして、警戒を解かし、親しくなるように。

ある日、箱根山での鹿狩りのために、領内に「勢子」を入れさせてほしいと依頼。
「大森藤頼」
は何の疑いもせずに快諾。

ある夜、「早雲」の兵が、千頭の牛の角に、松明をつけて小田原城を攻め、其れに呼応して、背後からあらかじめ入っていた「勢子」が、時の声を上げて矢で火を放つ。
これは多勢に無勢と
「大森藤頼」
は、大混乱に陥り、命からがら逃げだす始末。

ほとんど闘わずに、「小田原城」を手に入れました。
この時の年月は

「明応4年(1495年)9月」

とされていますが、諸説あるようです。
この後「小田原城」を拠点として、相模一国の制覇に乗り出します。

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北条早雲の戦いは今川の武将?自己の勢力拡大か?

小田原城の写真

「北条早雲」
は英雄です。
戦乱の時代の先駆けとも言われています。
また、下克上の先駆けとも。
特に「伊豆の制覇」については、下克上の奔りのようにも。
さらに、小田原城奪取も、自らの勢力範囲の拡大と思われていましたが・・

しかし、近年の研究では、このような対立構図があったと。

  • ➀:義澄-細川政元-今川氏親-宗瑞の陣営
    ➁:足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信縄-上杉顕定の陣営

「明応の政変」
の対立の構図が元になってる、軍事行動であると。
しかし・・対立した側も、収拾つかない戦乱の世に入っていくのですから、ここはやはり領地の拡大も、心の隅にはあったやもしれませんね~~(個人的見解)

参考までに、支配地図です。

北条早雲城関係図
(wikipediaより)

攻略した城です。
伊豆から相模や鎌倉までの、広大な領地になります。
これを一代で。

北条早雲二十一箇条と政策やエピソードや家紋!

小田原城の写真

北条早雲の残したエピソードなど、以下について解説。

  • ➀:北条早雲二十一箇条
    ➁:北条早雲の政策
    ➂:北条早雲のエピソード
    ➃:小田原北条氏の家紋

について解説。

早雲寺殿廿一箇条の内容!

「北条早雲廿一ケ条」
は、北条早雲が定めた家訓と言われます。
国を治める、基本ともいえる
「分国法」
とも言われます。
内容は以下。

一、可信佛神事(神仏を信ずること)
二、朝早可起事(朝は早く起きること)
三、夕早可寝事(夜は早く寝ること)
四、手水事(万事慎み深くすること)
五、拝事(礼拝を欠かさぬこと)
六、刀衣裳事(質素倹約を旨とすること)
七、結髪事(常に身だしなみを整えること)
八、出仕事(場の状況を見極めてから進み出ること)
九、受上意時事(上意は謹んで受け、私見を差し挟まぬこと)
十、不可爲雑談虚笑事(主の前で談笑するなど、思慮分別のない行動を慎むこと)
十一、諸事可任人事(何事も適切な者に任せること)
十二、讀書事(書を読むこと)
十三、宿老祗候時禮義事(常に礼儀を弁えること)
十四、不可申虚言事(嘘をつかぬこと)
十五、可学歌道事(歌道を学び品性を養うこと)
十六、乗馬事(乗馬の稽古を怠らぬこと)
十七、可撰朋友事(友とする者はよく選ぶこと)
十八、可修理四壁垣牆事(外壁や垣根は自ら点検し、修繕を怠らぬこと)
十九、門事(門の管理を徹底すること)
二十、火事用事(火元は自ら確認し、常に用心すること)
二十一、文武弓馬道事(文武両道を旨とすること)
(wikipediaより)

武士なら武士らしく・国を治めるなら、国主にふさわしく、人の信頼を得るには?
そんな内容を、この21文に集約してるように思います。

北条氏康公は、わが子「氏政」を見て、嘆息を衝いたのかもしれません。

北条早雲の政策と人となり!

「北条宗瑞」(早雲)は、かなり決まり事には厳格な方のようです。
以下。

  • ➀:両国支配を強化
    ➁:「北条早雲廿一ケ条」は分国法の基本
    ➂:指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施
    (戦国大名では最古)
    ➃:虎の印判状無き物の徴兵は無効
    ➄:最後まで今川氏の家臣(とはいっても・・)

な方。
➁番は、法律の基のようなもの。
決まりがなくては、権力次第ですから。
どうやら、勝手な徴兵が、まかり通っていたんですね‥この時代は。

「北条早雲」
の出世のきっかけは、姉の「北の方」が、今川義忠の室であったため。
早雲が死の時点で、まだこの北の方は存命。

最後まで、今川家への家臣として、その立場を捨てることはなかったようです。
が・・そうは言っても、国が大きくなれば、家臣はそうはならないかと。
それは「氏綱」に引き継がれることに。

北条早雲の有名なエピソード!

以下のエピソード。

「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる」という霊夢を見たという話が『北条記』に書かれている。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの宗瑞のことである
(wikipediaより)

「北条早雲」
が、相模に侵攻するにあたっての、大きな障害。
山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が、当時の一大事件。
この巨大な二勢力に、立ち向かっていくのです片、並大抵ではないはず。

夢にまで見て、当然かと。
這い上がるには、どちらか一方を、殲滅しないといけないのですから。

小田原北条氏の家紋は鎌倉北条氏を踏襲!

「北条早雲」
の家紋は自ら、鎌倉北条氏の後裔を称し、その家紋を用いました。
「三つ鱗」
という家紋。

北条氏家紋

他に、正三角形のものがあります。

後北条氏家紋

この正三角形のものは、支流の方が使ったとあります。
鎌倉北条氏の、「義時」の父の「時政」が

「江の島弁財天の祠」

に、二十一日間参籠して、子孫の繁栄を祈っていると、竜が表れて、その時のうろこの三枚を家紋にしたと。
そういう言い伝えです。
お告げの通り、日本を支配しました。
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「北条氏康公」はまさに名将かと。

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北条早雲の子孫のその後とまとめ!

「北条早雲」
の人生について、したことや家系図など作成し、解説してみました。
その子孫ですが

二代「氏綱」がしたこと!

➀:伊勢氏 → 北条氏 に改名
➁:領土支配体制を強固にした。

三代「氏康」がしたこと!

➀:北条氏の繁栄はここに極まる。
➁:まことに戦上手。

四代「氏政」がしたこと

➀:小田原征伐で敗退

五代:氏直がしたこと

➀:太閤殿下に恭順し北条氏再興の道筋をつける。

簡単に書けば、こうなるかと。戦乱の世で

  • ・上杉謙信
    ・北条氏康
    ・武田信玄

は、共に戦った盟友。
ある時は敵である時は同盟。
戦乱の世の象徴にも感じます。

*家系図は、wikipediaや、ほかの情報を参考にして、私が作成しました。
変なところがあっても、容赦ください。
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*ヘッダーの写真は、私が撮影した鳴子ダムの夏の風景写真です

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