戦国時代の合戦の陣形は?主要陣形一覧と武田八陣形を考案は誰だ?
戦国時代の、合戦時の兵の陣形については諸説ありますが、第一は諸葛亮孔明他発案と言われる、中国から伝来の「八陣図」の存在が。
・武田八陣形は八陣図が元。 |
鶴翼(川中島信玄)と車掛かり(川中島の上杉軍)と魚鱗の陣(三方ヶ原信玄)は、とくに有名だな!。
Contents
八陣図起案は諸葛亮公明なのか?またその八陣図の陣形とは?
「八陣図」
は、諸葛亮公明の作と言われてるようですが、どうやら改良はしたのでしょうが、いろんな方の名前が挙がっているようです。
諸説あるようですが、ここでおさらい。
八陣図の原型の最初の起案は黄帝の時代!
えらい大昔のことですが、この八陣図の大本は、「黄帝」の大臣であった
「風后」
が作った、八つの陣形であるというのが、どうやら正しいようです。
「黄帝」とはいつの時代の人だ?
以下のようです。
黄帝(こうてい)は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。本来は「皇帝」と表記されたが戦国時代末期に五行思想の影響で「黄帝」と表記されるようになった[1][2]。(紀元前2510年~紀元前2448年)
(wikipediaより引用)
あんりゃ~~えらい昔の方ですね。
エジプトと同じ時代のような‥もう想像もつかない時代の方です。
その時に、この八陣図の基となるものがあったとは、驚きです。
こんな図のようですが、これであってるのかどうか、いずれ大昔のことですからね~~
当初は、この八陣図は
「握奇陣」
と言われたそうです。
今から4500年ほど前のことです。
驚きます。
「握奇陣」とは?種類と陣の名称は?
内容は
「天覆陣、地載陣、風揚陣、雲垂陣、龍飛陣、虎翼陣、鳥翔陣、蛇蟠陣」
となっていて、それぞれの陣形には、それぞれのコメントが書き添えられてあるそうです。
その後、この「八陣図」は、各軍師の基で改良が重ねられたようですね。
- 諸葛亮公明:八陣兵法図(八陣図)
姜尚(殷):太公陣
孫武:八卦陣
韓擒虎:九軍陣法(八陣図の別名)
李靖(りせい)と李勣(りせき):六花陣(衛公兵法)
などなど・・もう一人、漢建国に貢献した「張良」の作との、お話もあるようですが、いずれ、名だたる兵法家がおおもとの「握奇陣」をアレンジして、自分なりに信じる陣形を構築したんだと思います。
陣形の内容は、上の図によりますが、記載したように
「天覆陣、地載陣、風揚陣、雲垂陣、龍飛陣、虎翼陣、鳥翔陣、蛇蟠陣」
となるようです。
詳しくは、また別の章で!
八陣図は日本にはいつの時点で入ってきた?
日本にこの「八陣図」が入ってきたのは「平安時代」と言われているようですね。
この平安時代の、軍略家の
「大江維時」
という方が、この八陣図にそれぞれ名前を付けたんだそうな。
以下のような図になります。
(日本大百科事典より))
「魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円」
という陣形の名前です。
大江維時という方はいつの方?
以下のようです。
大江 維時(おおえ の これとき)(888~963年)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・学者。伊予権守・大江千古の三男。官位は従三位・中納言、贈従二位。
(wikipediaより引用)
900年頃の時代に、中国の八陣図を解析していたんですな~~
驚きます。
しかし、当時はこの陣形の意味する内容が、戦術なのか構築陣地の建設法なのかや、軍団の配置や要塞軍なのか‥はっきりとはわからなかったそうですね。
そこで登場の
「武田信玄」
ですね~~時代は約500年以上後になります。
山本勘助監修の武田八陣形の陣形はどんなものだ?
中国から伝来の
「八陣図」
は、武田信玄によって、日本で合戦の実用化に耐える内容で、日の目を見ることになります。
きっかけは家臣の軍師の「山本勘助」。
NHK大河でも何度も出てきました。
火野正平さんが、出演もありましたね~~懐かしいです。
武田八陣図は「戦国八陣」という形で、従来の中国の「八陣図」を、自軍に取り入れて有利になるように、するべきではないか?
そう考えて、軍団の陣形などを改良して、信玄に提案。
武田信玄は、一発採用・・かどうかはわかりませんが、そこで日本の戦の合戦シーンに、戦国八陣が登場して規律ある陣形が登場したことになります。
これは、見事だったでしょうね~~
武田騎馬軍団の陣形は、勇壮だったに違いありません。
この陣形を「武田八陣形」と言います。
武田八陣形の内容は?
以下のような配置図です。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/陣形より引用)
ここの陣形の案内です。
長蛇の陣(ちょうだのじん)
兵を隊ごとにほぼ一列に並べる陣形。縦方向に敵陣を突破する場合には、非常に有力な陣形である。偃月の陣(えんげつのじん)
鶴翼とは反対に中軍が前にでて両翼を下げた「Λ」の形に配置する。大将が先頭となって敵に切り込むため士気も高く、また馬回りの精鋭が開幕から戦うので攻撃力も高い。鋒矢の陣(ほうしのじん)
「↑」の形に兵を配する。矢印の後部に大将を配置し、そちらを後ろ側として敵に対する。長所と短所、どちらも魚鱗の陣をより特化した物である。鶴翼の陣(かくよくのじん)
両翼を前方に張り出し、「V」の形を取る陣形。魚鱗の陣と並んで非常によく使われた陣形である。中心に大将を配置し、敵が両翼の間に入ってくると同時にそれを閉じることで包囲・殲滅するのが目的。雁行の陣(がんこうのじん)
長蛇の場合よりも横幅を太くした列にし、少しずつ隊を斜めにした格好で構えた陣形。列の真中あたりに大将を配置することが多いが、敵の位置による。方円の陣(ほうえんのじん)
大将を中心として円を描くように兵で囲む陣形。全方位からの敵の奇襲に対処できる防御的な陣形。移動には適しておらず迎え撃つ形となる。魚鱗の陣(ぎょりんのじん)
中心が前方に張り出し両翼が後退した陣形。「△」の形に兵を配する。底辺の中心に大将を配置して、そちらを後ろ側として敵に対する。衡軛の陣(こうやくのじん)
段違いにした二列縦隊。敵の動きを拘束し、包囲殲滅することを目的とした。山岳戦などで用いられた。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/陣形より引用)
などのこの八種類の陣形。
実際に、合戦の使用例では、多くの場合に
- 1:魚鱗の陣
2:鶴翼の陣
が多く用いられたようです。
武田八陣図とは関係がないですが、上杉謙信もかなりの軍略家だったようですね。
上杉謙信が好んだ
車掛(くるまかり、くるまがかり)の陣
があります。
雪深い越後の、特有の陣形ともいわれるようですが、新手を常時繰り出して、後退させた兵員は吸収しながら・・
越後は寒いので、常に動いていないと体が冷える・・そんなことから考案されたというお話ですが、さすが上杉謙信ですねえ~~
武田八陣形の実際の合戦の応用例は?
合戦での使用例ですが、有名どころ数か所かと。
私の大好きですが、以下の合戦は、その時歴史が動いた・・のではないでしょうか?
武田信玄と上杉謙信の川中島第四次決戦!
これは有名なお話の合戦です。
映画にもなりましたし、NHK大河ドラマでもこの合戦シーンは、クライマックス!
何度も見させられましたし、本でも読みました。
海津城と、妻女山と八幡原と善光寺平。
この三つの地形で、合戦の場所は「八幡原」。
「直江、あの煙を何と見る?」
「は・・おやかたさま・・あれはなんと・・」
「明日信玄は動く、あれは飯を炊いてる煙だ・旗差しはそのままで、全軍今夜中に、決戦場八幡原に移動する!」
対する信玄は、山本勘助の提案の「キツツキ戦法」で、妻女山を別動隊が後ろから襲撃して、出てきたところを八幡原で迎え撃つ!
部隊を二つに分けたんだな。
が・・読まれていた!
八幡原の霧が晴れたら、向こうに上杉謙信の本体が、しかも陣形は
「車掛の陣」
武田信玄も山本勘助も、初めて見る陣形!
「車掛の陣とはあれのことか・是非もなし・・陣を鶴翼に切り替える!」
陣形切り替えの、馬の連絡員が疾走するシーン!
と陣形を変更した武田信玄。
この時の役者は、津川雅彦さんだったな~~確か‥いい役でした。
鶴翼の陣形で、上杉謙信の攻撃を分散させたのはいいのですが、別動隊が来るまでは大苦戦。
多くの戦死者を出しました。
- 武田方:4600人
上杉方:3400人
という推定ですが、犠牲の上に成り立った、戦でしたね~~
武田信玄と徳川家康との三方ヶ原の決戦!
これはもう、徳川家康の唯一の、コテンパンにやられた、負け戦ではないでしょうか?
織田信長よりは、決して城をでるな・
とはいっても、三河武士の誇りが許さず!
そんなところではないでしょうか?
あの、床几に座る徳川家康公の絵ですが、負けて城に逃げ帰って、すぐに
「絵師を呼べ!」
というシーンですね~
この時の
- 徳川家康:鶴翼の陣
武田信玄:魚鱗の陣
司馬遼太郎の小説の中では、この時に
「真田昌幸」
が出てくるんだな~~
若き、武田騎馬軍団の青年将校と言ったところでしょうか。
結果は、ご存知の通りコテンパンに徳川軍の負け。
兵力差もあると思いますが、戦にならなかったようですね。
武田騎馬軍団の、魚鱗の陣から繰り出す新手の攻撃からは、いいようにあしらわれた感じ。
が・・しかしさすが徳川家康公。
この時の教訓は、しっかりと肥やしにしたんだと思います。
負けた・・将棋に座る自分の姿・絶対に忘れるべからず!
ですね。
天下分け目の関ヶ原の決戦!
此方も、陣形はあったんですね~
夜のうちの西軍の移動だったので、陣形あったのかな~~って思ったのですが
- 西軍:鶴翼の陣
東軍:魚鱗の陣
ドイツの軍人だったメッケル少佐という方が、この布陣図を見て
「勝者は西軍」
といった話は有名ですが、しかし勝ったのは東軍でした。
なんで?
鶴翼の一方を担った、重要な位置の
「小早川秀秋」
が、寝返って東軍についたからですよね~~
これは有名なお話。
この寝返りがなければ、また、毛利輝元を補佐した、吉川広家が西軍側で全うしていれば、勝敗はまだまだ決することは、なかったかもしれません。
もしかしたら、長期戦に突入かも。
いずれ陣形は重要で、そういった意味では
「武田八陣図」
は素晴らしい価値のあるものでしたね。
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「武田八陣図」
を見て、思うのですがギャオで無料視聴でやっていた
「三国志」
ですが、もちろん主役は「劉備玄徳」ですが、「諸葛良孔明」「関羽」「張飛」「趙雲子龍」などなど敵方では
「曹操」「曹仁」など名だたる勇猛が、覇を競ったわけですが、この中にも陣形は出てきます。
とても面白かったです。
中でも曹仁が趙雲に破られた
「八掛の陣」
は興味深かったですね。
多分ですが、八卦の陣は考案者は孫子の兵法の
「孫武」
かと。
曹操が好んだ陣形と、徐庶は言っています。
私の人生の八陣図は?
人生にも陣形は、必要かと思います。
私は、そういうのは全く意識していませんでしたが、これを書いていて、そう思いました。
- 1:攻める陣形
2:守る陣形
3:しかも地形に合わせた陣形(年齢かも)
などなど・・陣形には大きく分けて二種類かと。
攻めるか守るかですよね~~
今は攻めの時・・
今は守りの時でじっとしているが肝要・・
などなど。
今の私の年齢を考えたら、これはどっちなんかな~~???
って・・いい年こいて、攻める??
いえいえ・・守ってばかりでは、人生面白くないかも・・なんてね。
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