戦国時代の石高ランキング上位ベスト10は?石高に見る兵動員数!
戦国大名の石高ランキングや、兵力の動員数について調べてみました。
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時代は戦国時代、関ケ原時、江戸時代と激動の時代。
*時代とともに貨幣価値や動員数も違うので、参考程度まで。
Contents
戦国時代の石高ランキングと兵力動員数は?
戦国時代の大名は、どれほどの石高を抱えていたのか?
とても興味があります。
戦国時代・1570年時点の大名の石高ランキング!
戦国時代、1570年時点の、有力大名の石高は、大体(概ね)以下のようです。
1位 | 織田信長:240万石:60,000人 |
2位 | 上杉謙信:130万石:32500人 |
3位 | 北条氏康:127万石:31750人 |
4位 | 武田信玄:122万石:30500人 |
5位 | 朝倉義景:87万石:21750人 |
6位 | 佐竹義重:74万石:18500人 |
7位 | 蘆名盛氏:65万石:16250人 |
8位 | 里見義尭:62万石:15500人 |
9位 | 徳川家康:56万石:14000人 |
10位 | 雑賀一向宗:40万石:10000人 |
11位 | 浅井長政:39万石:9750人 |
12位 | 本願寺顕如:32万:8000人 |
13位 | 伊達輝宗:22万石:5500 |
この兵力の算出条件ですが、一般的に言われてる数字ですが
- 1万石:250人
要は40石で1人です。
これは、江戸幕府の時代もほぼ、同じような石高に対する家臣の、義務付けを見てもほぼ同様に感じます。
但し、織田信長だけは、兵力には
「傭兵」
を用いていましたから、年中戦ができました。
他の大名は、暇なときは農作業ですから、機動力には劣ったかもしれません。
朝倉氏は、87万石もあったんですね~~
織田信長は、やはり脅威で浅井氏にお市の方を送って、同盟しようとしたんでしょうが、うまくいかなかったようです。
しかし最後はあっけなかったですが。
この時代以降は、織田氏の圧倒的な勢力拡大図が、本能寺の変まで続いていき最終的には
織田信長:700万石
まで行ったわけです。
基は尾張の小大名だったのですが、破竹の勢いだったですね。
NHK大河で、明智光秀が言うように人の心を掌握できないと、天下は取れない・・
そういうことなんだと思います。
*伊達のお殿様は、まだ父の輝宗の時代で、この時代はまだ米沢です。
関ケ原時点の大名の石高ランキングと兵力動員数は?
時はだいぶたって、豊臣政権下です。
豊臣政権が発足して、この関ヶ原の時点までは、多少の改変はあったとしても、大枠の大名の勢力図と、石高は以下のようです。
この大名は東西に分かれて、天下分け目の大戦!
関原時点の石高ランキングと兵力動員数は?
概ね、以下のようです。
1位 | 徳川家康:255万石:63750人 |
2位 | 豊臣秀頼:222万石:55500人 |
3位 | 上杉景勝:120万石:30000人 |
4位 | 毛利輝元:120万石:30000人 |
5位 | 前田利長:83万石:20750人 |
6位 | 伊達政宗:58万石:14500人 |
7位 | 宇喜田秀家:57万石:14250人 |
8位 | 島津義弘:56万石:14000人 |
9位 | 佐竹義宣:54万石:13500人 |
10位 | 小早川秀秋:36万石:9000人 |
11位 | 加藤清正:25万石:6250人 |
12位 | 最上義光:24万石:6000人 |
13位 | 長曾我部盛親:22万石:5500人 |
などなどとなってるようです。
この時点でのキーパースンの
- 石田三成:19万石:4750人
で、この後に続きます。
この場合の兵力動員数ですが、関ケ原に参じた大名の兵力の数は、動員数よりも多い大名が多数。
目いっぱい背伸びして、天下分け目と判断して、人生をかけて戦をしたんでしょうね~~
そんな気がしました。
ちょっと異質なのは
- 「豊臣秀頼」
ですね。
これだけの、直轄がありながらなんとも・ですね~~
旗印の行き先が、全くわからなくて右往左往の様子が伝わります。
が・・今になって、こういう歴史を振り返るから、そんなことが言えるのであって、当時は生きるか死ぬかの瀬戸際で、必死だった時代。
石高の増え方は、半端なかったですね~~徳川家康公は‥
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江戸時代の大名の石高ランキングは?
では時代は、平和な江戸時代。
戦のない世界で、麒麟が来たのかな~~
結局平和な世を築いたのは、「徳川家康公」でした。
正室と側室の間の子供と、その後や将軍になるまでと、その後のしたことをまとめてみました。
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江戸時代の大名の石高ランキングは?
資料ですが、文久3年の幕府大目付調べと言う石高ランキングがあります。
文久3年:1863年です。
1位 | 加賀前田藩:祖:前田利家:120万石 |
2位 | 薩摩鹿児島藩:祖:島津義弘:72万8000石 |
3位 | 陸奥仙台藩:祖:伊達照宗:62万石 |
4位 | 尾張名古屋藩:祖:徳川家康:61万9500石 |
5位 | 紀伊和歌山藩:祖:徳川家康:55万5000石 |
6位 | 肥後隈本藩:祖:細川藤孝:54万石 |
7位 | 筑前福岡藩:祖:黒田孝高:47万3000石 |
8位 | 安芸広島藩:祖:浅野長政:42万6000石 |
9位 | 長門萩藩:祖:毛利隆元:36万石 |
10位 | 肥前佐賀藩:祖:鍋島直茂:35万7000石 |
11位 | 常陸水戸藩:祖:徳川家康:35万石 |
12位 | 伊勢津藩:祖:藤堂虎高:32万3900石 |
13位 | 越前福井藩:祖:結城秀康:32万石 |
と言う、ランキングです。
大目付と言うからには、おそらく徳川幕府の見地による、ほぼ正確なものではないかな~~と個人的には考えます。
なお、この時点では平和ですから、兵力の多寡は割愛しました。
ここから、幕末に向かって行くわけです。
戦国時代の反当たりの米の収穫量はいくらだった?
戦国時代における
石高(こくだか)」
は、領地の面積に対する米の
「収穫量」
を基準にしたもので、主に
「石」(こく)
という単位で表されていました。
この石高の基準として使われる米の収量ですが、面積単位である「反」(たん)当たりの収量についての具体的な数値は、地域や年によって異なるのですが、以下に一般的な目安と言われてる内容を記してみます。
反当たりの米の収量
戦国時代の
「米の収量」
は地域差が大きく、また気候や年によっても変動がありましたが、一般的には反当たりで
「約1〜2石」
が収穫されるとされています。
①:1反(10a)当たりの収量: 約1石〜2石
②:1反(10a)
は、現在でいう約1000平方メートルの面積で、収穫量は1反当たりおおよそ
1石(約150㎏)〜2石と考えられます。
1石:60㎏で2.5俵:150㎏
石高との関係
「石高」
とは、領地の面積やその生産能力に基づくもので、たとえば
「1万石」
の大名が持つ領地は、
「10,000石の米を収穫」
する面積の土地を支配していたことを意味します。
石高はその大名が支配できる
「兵力や資源の規模」
を示しており、実際には収穫量だけでなく、地理的条件や農業技術、管理体制にも大きく影響されました。
米の収穫量の地域差
「東北や関東地方」
では、一般的に収穫量が少なめで、1反当たり
「1石程度」
という地域も多かったと言われています。
関西や中国地方などの温暖な地域では、1反当たり
「1.5〜2石」
以上の収穫が見込まれる場合もありました。
戦国時代の米の収穫量の総論
戦国時代における1反(10a)当たりの米の収量は、平均的に
「1石から2石」
程度が一般的でしたが、地域や年によって異なるため、この範囲に収まらないこともあります。
石高はあくまで目安としての収穫量を示しており、収穫後の実際の米の取引量や税収にも影響を与えていました。
*参考までに、私(管理人)はコメを作ってますが、私が住んでる山間地(山奥のへき地)での収量は大体
「7~8俵」
程度です。
今年の宮城県の平均収量が
「約600㎏:10表)
ですからえらい差があります。
山間部はどうしても収量は落ちます。
しかし、味は総じて反比例する傾向があるようですね。
これは水によると私個人は考えています。
山間部程奇麗な俗にいう精米すると透明な
「水晶米」
が取れます。
*余談でした
戦国から現代までの特権階級や世の中に思うことの感想とまとめ!
戦国時代の、戦国大名の石高ランキングと、豊臣政権時代(関が原時点)の、大名の石高をランキングにしてみました。
戦国時代を生き抜いた武将の石高は、とても興味があったのですが、事実を知るにつけ、なかなか面白かったです。
興味深いのは、兵力の動員数。
おそらく、織田信長の場合は、主力が傭兵部隊ですから、兵の動員数はもっと多かったと思います。
織田信長が、短期間でなぜあんなに多くの領土を拡張することができたか、ここがポイントだと思うんだな。
この大名は、旧態依然とした兵力は戦がないときは、足軽等は農民が多かった時代。
したがって、織田信長のように、年がら年中戦をやるわけにはいかないんですね。
石高を維持するための、食料を作らないとどうにもなりませんから。
豊臣政権から関ケ原~平和な江戸へ!
時代は、豊臣政権になってとりあえず平和になりました。
そこで太閤検知が行われ、石高がある程度正確になったのかもしれません。
領土の多い少ないはあるにしても、このときの知行が関ヶ原の戦の時点の、各大名の石高と私は解釈しました。
大名の多くは、この関ケ原の戦でもちろん負けたほうは改易で、勝利した徳川方は、大きく加増されました。
その時点の、各大名の石高はそのまんま、江戸時代の平和な世の中に持ち越しになったのかなあと、思った次第。
もちろん、関ヶ原の戦以降も大阪夏の陣と冬の陣がありますから、その時の功績も考慮されたかと思います。
江戸時代の、大名の石高は幕府大目付の資料の、文久3年のものがあったので、それからランキングしました。
徳川家康公の、子供たちが全国に要所要所に愛されていたことが、このランキングでなんとなく解釈できます。
他の記事の、江戸時代の武士の年収について書いた記事があるので、そちらも参考にしてほしいのですが、武家の給料は石高です。
しかしながら、その石高に応じた位の、義務づけられていたようです。
もちろんそれはいざと言うときの、戦の対応する義務があったんですね。
兵力の動員数は上で紹介しましたが、おおむね
- 1万石:250人
と言われていたようです。
関ヶ原の戦の時に、連れて行った兵力を見ると、気合の入れ方が判断できるような気がするんだな。
まだまだ余力のある武将もいれば、領地の事は考えず、ほぼ全員連れてきて、人生をかけて戦・・まさに天下分け目に賭けた方もいます。
そう思うと、人生だなぁと思うんだな。
NHK大河で「麒麟が来る」をやっていますが、とても見る視点というか、それがオリジナリティーが感じられて、とても面白いです。
(これを書いてる時点)
戦国武将の生き様から、人生の教訓を得る事はとても多いです。
ちょっと、武将の方には申し訳ない気もしますが、とても参考になります。
皆さんはいかがですか?
征夷大将軍のルーツ・
ある意味日本国の根幹かもしれません。
・・・・・・・
*私自身の主観も入れて書いてますので???な部分は容赦ください。
ヘッダーの写真は、愛機のフジの一眼で撮影の、中尊寺正門の瓦紋の写真です。