石高1石は江戸時代で現在の価値でいくら?武士と農民の年収も調査
江戸時代の武士の収入は、「石高」でした。 1石はコメの単位ですが、量と金額と価値のお話です。
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平時とはいえいざ鎌倉・・に備えて家臣を常時雇用ってホントかな?。
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石高の一石はコメなんぼ?金額換算ではいくらになる?
戦国時代やそれ以前からの、大名の規模を表す、または給料の額を表す単位が
- 「石」(コメの単位)
ですね。
食べることが基本だった時代に、コメは主要な産品で、しかもお金に代わるものだったので、まさに
「米本位制」
だったんだと思います。
一石は米2.5俵ってコメの量で何㎏だ?
昔の単位は「尺貫法」ですから、それによると
一石 | 2.5俵 |
重量 | 150㎏ |
量 | 大人が一年に食べるコメの量 |
測定すると | 1000合:100升:10斗 |
ですよね~~ちなみに1合は、180㏄になります。(約コップ一杯)
約ですが、一日約3合食べる勘定になります。
一石は金額に換算するとなんぼ?何両になるかな!
これは諸説あるのですが、江戸時代の初期と、終わり(明治に近いころ)では、かなりの貨幣の価値の差があるようです。
でも、決まっているのは
一石=一両
これは同じようですね。
さて、この一両の貨幣価値ですが大体
「10万円~20万円」
の間であろうということです。
江戸時代は、一般的に言われるのは、1両あれば一か月暮らせたそうです。
って‥ことは、12石の過料(収入)があれば、年収としては生活だけは出来た‥そういうことなのだと思いますが、事はそう単純ではなさそうです。
しかし、今と違って電気もなければ、娯楽もなければ携帯(スマホ)もありませんし、テレビもない時代。
飯食って寝る・・そんな時代だったかもしれません。
変な遊びや、飲み歩きをしなければ、確かに10万ちょっとで暮らせたかもしれませんね。
今だって、私は何もなければそんくらいで、暮らせるかも!
田んぼもありますし、畑から野菜がありますし、家は持ち家で借金はありません。
年金で十分かと。
でも、江戸時代ですからね~~対象は武士です。
大名と直参家臣団と藩士の違いは?
武士の階級もいろいろあります。
1:大名:一万石以上
を言います。
そして
武士の区分けですが、大きく分けて
- 1:直参旗本(直臣団)
2:藩士
1は徳川将軍家の家臣団で、2は地方大名の家臣団になります。
いずれも、大体同じような構造になっていたようです。
但し、大名でも小規模だと、家臣団(藩士)の人数が少ないですから、構造的には簡単だったようですが、ここでは最も多い方の例で。
ここでは、便宜上1番で。(直参・・)
1番は、さらに2種類に分かれるのですが、人数はどれだけいたのかも併せて。
人数は、1722年の数字になります。
旗本 | 5205人 |
御家人 | 17399人 |
と別れます。
旗本と言えども
「9500石~15石」
くらいまであって、ひとえに名前が旗本だからと言って、高給であったかと言うとそうでもないのです。
一番多いのは100~300石の層で、ここで半分以上だったそうな。
一方で、御家人はほとんど
「50石未満」
だったと。
勝海舟は、父が勝小吉で御家人の41石です。
「子母澤寛」
の小説が好きで読んでいたのですが、その時の記述が確か
「50石二人扶持」
だったように思います。
いずれ、勝小吉は生まれは旗本でしたが、三男のため勝家に養子、そこが御家人の41石だった。
これに、今納得しました。
いずれにしても、大変な上下の格付けだったんですね~~
武士の平均的な年収のお話!しかし実際は家臣が必要だった!
では、江戸市中のお話で。
ってか・・どこでも同じだったと思います。
当時も、中央と地方の格差ってあった?
さて・・どうでしょうか?
これはまた後程別の紙面で。
江戸時代の武士の平均年収はどん位だった?
さて・・どん位でしょうか?
ここでは、上記の平均年収石高を参考に見ていこうと思います。
「100~300石」
が平均ならば、そのまた中間の200石を例にとって計算してみます。
この場合の年収は以下のような計算になります。
総収入 | 200石 |
税金 | 120石(6割・・高いな~~) |
手取り | 80石(80両) |
手取り収入 | 960万円:(一両:12万円計算で) |
で、結構な金額で、今の時代でも結構いけてます。
他に雑収入で
- 1:勤務していれば勤務手当
2:使用人への多少の科料
があったようですが、それもまちまちで勤務できればいいのですが・・さてね~~
ところで、上記の勝小吉さんの、41石御家人ではどうでしょうか?
総収入 | 41石 |
税金 | 24.6石 |
手取り | 16.4石 |
手取り収入 | 1,968,000円:(一両:12万円計算で) |
これで一家を養うには、とてもですよね~~
しかも、次に紹介する縛りがありますから、なおさら・・平時なのにね~~
*ちなみに今の日本では確か200万以下はワーキングプア―ですよね‥確か・・
直参旗本に見る家臣団の義務付けで収入大幅減!
これはどういうことかと言うと、徳川将軍家の家来は石高に応じて、家臣を雇っていなくてはならなかったのです。
これは、いざ鎌倉(関が原)・・そういう時に直参旗本や御家人も含めて、全員戦支度して、はせ参じなくてはいけなかったんだな~~
それが、義務だったんです。
先ほどの、勝小吉の「五十石二人扶持」と言うのは、戦になったら部下を二人連れてこい・・そういうことなんだと、私は解釈します。
すると‥徳川直轄400万石で、旗本八万騎は説明つくな~~って思った次第です。
実際は、そんな単純ではなかったようですが、細かく決められていたようです。
以下のようです。
100石 | 2人 |
200石 | 5人 |
300石 | 7人 |
500石 | 11人 |
1000石 | 21人 |
これ結構な家来ですね。
問題は、この分の出費・・しかし、小説の中で勝小吉が、使用人を雇っていたか?
確かいたな~~って、思うんだが40年ほど前に読んだので、さて・・どうだったか‥いたような気がする。(記憶あいまい)
思い出してみたのだが、年に一回?お城に証拠で参じないといけなかったような・・
そこで、家来はバイトを雇って・・証拠にしていた・・でなかったかな~~たしか。
(記憶違いならスイマセン・・)
多分、そんな年収で人を雇えって言われても無理だと思うので、皆さん無視していたのではないかな~~って、勝手に思いました。
有名どころの直参旗本の年収は?大岡越前や長谷川平蔵の年収は?
ではここでは、時代劇ドラマでおなじみの、超有名人の懐具合を。
とはいっても何せ、江戸時代のおはなしですから、多少の齟齬があってもお許しあれ!
では当山の金さん
当山金四郎:500石
税金:300石
手取り:200石
200両ですから、12万円をかけると
- 年収:2400万円
ですね。
結構な金額ですね
では今度は大岡越前の上の場合は
大岡忠相:1920石
税金:1152石
手取り:768石
768両ですから
年収は:9216万円
です。
これは結構な年収ですね
一流会社の社長クラスかと。
鬼平犯科帳の長谷川平蔵は
総額:400石
税金:240石
手取り:160石
手取り年収:1920万円
です。
まあ~~それぞれが、部門の責任者ですから、当然かと。
しかし・・目に見えない、上記で紹介した、使用人と言うか家臣の数は
- 200石:5人
100石:2人
300石:7人
500石:11人
1000石:21人
とこんな感じの、家臣を常時雇っていないといけないのですから、これはちょっと大変かと。
例えば、遠山金四郎さんは500石ですから
「11人」
ですよね~~
っていうことは、2400万円の給料で、11人常時家臣がいないといけないんです。
いくらなんでも11人とは・・ですが、当時は平時でも、備えていなくてはいけなかったんだと思います。
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伊達政宗公の石高の増え方など考察しました。
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農民の年収(コメの生産量換算):江戸時代の一般的な収入
江戸時代の農民の年収は、
「コメの生産量」
で表されることが多いです。
一つの基準として、
「**1石(こく)**のコメは、大人1人が1年間に必要な食料量」
とされました。
大人一人150㎏を食べる感情です。
現代よりはかなり多い量です。
①:平均的な生産量
1戸あたりの生産量: 平均して 10~20石 程度。
小規模農民(小作農):5~10石程度。
中規模農民:10~20石程度。
大規模農民:20石以上。
コメ以外にも、大豆や麦などを生産していましたが、それらは自家消費や副業としての収入となり、主な収益源はこの時代はコメでした。
2. 年貢の割合
年貢は、生産量の中から一定割合を領主(幕府や藩)に納める税金で、地域や時代によって異なりますが、おおむね生産量の40~50% が標準的な年貢率とされています。
*年貢の詳細
*一般的な年貢率:40~50%
*豊かな土地では30~40%程度に抑えられる場合も。
*不作時や災害時は年貢率が下げられることもありました(年貢減免)。
高年貢地:50~70%
武家社会を支えるために過酷な負担を強いられた地域も存在。
現物納:コメそのものを年貢として納めるのが基本でした。
*特徴は現金ではなく物納・つまり米で納税していたんですね。
しかも否応なく半分も・・すごい税率。
3. 実質的な農民の生活
年貢を納めた後、農民が手元に残すコメは、生産量の30~50%程度でした。
この分で自分たちの食糧を賄い、余剰があれば市場で売り、道具の購入や副業に活用しました。
年貢後の生活の内訳
*家族の消費(自給用)。
*種籾(翌年の種もみ用)。
*販売用(衣類や塩、道具の購入費に充てる)。
特に小規模農民にとって、年貢の負担は非常に重く、凶作の年には食料が不足し、借金や餓死に追い込まれることもありました。
学校で習った、江戸時代の大飢饉は実際は相当ひどいものだったんだと推察されます。
4. 江戸時代の農民の年収を現代に換算
「1石のコメは約150kg」
で、現代の価値で考えると
「約30,000~50,000円程度(地域や米の価格・または時代により変動)」
これを基に、以下のように換算できます。
10石生産する農民:60k当たり25俵
*年貢(50%の場合):15万円~25万円相当。
手取り:約15万円~25万円相当。
この手取りは、現代の基準で見ると極めて少なく、物々交換や自給自足が生活の基盤だったことが分かります。
5. 年貢以外の負担
年貢以外にも農民には負担がありました:
*労働力提供(人足、普請など)。
*物資の提供(運送用の薪や船など)。
*村役人に対する協力や寄付。
こうした負担も農民の生活を圧迫していたと言えます。
お代官様はやはり偉かったんですな~~
悪徳の代官様もそれはこれならいるよな~~
江戸時代の農民の年収のまとめ
江戸時代の農民は、平均して 10~20石 のコメを生産し、そのうち 40~50% を年貢として納めていました。
現代の価値で換算すると、年収30~50万円程度に相当しますが、手取りはさらに少なく、生活は決して裕福とは言えないものでした。
農民はその中で工夫しながら、自然の脅威や年貢の重圧と向き合い、慎ましく暮らしていたのです。
上での例は10石の例ですが、20石ならその倍です。
江戸時代と現代の農民の比較:自分の場合
現代ではどうだ?
ちなみに私はコメ農家。
兼業農家で「1.5ha」の面積を作付けしています。
これでの年収ですが、上記の
「10~15石」
の手取り年収と何ら変わりませんね。
肥料代や農薬、軽油や乾燥機の灯油代など・・差し引くとそんなもんです。
他には機械のメンテナンスや修理代が、大体10万円程度かかってる印象。
農機具の(コンバインやトラクターや乾燥機や田植え機などなど)購入費などは全く賄えません。
つまり全体的にみると
「大赤字」
です。
が・・機械の購入は20年に一度程度なので、目立たないから何とか・・
壊れたら購入ですから‥が・今年はコンバイン購入(中古)しましたが
「200万円」
までは行きませんが・・こんな経費どこからも出ません。
それだけで、約10年分の純利益(粗利)が持っていかれるので‥何のためにやってる?
ひとえに好きだから‥それと生まれた土地だから‥先祖代々うちは農家と言う既成概念。
日本人って、つくづくまじめだな~~と。
悪徳代官様に年貢を搾り取られても、赤字と分かっていてもコメを作り続ける勤勉性。
え??
赤字でよくやってる???
そりゃ~~持ち家ですし、食うものは田んぼと畑でほぼ自給ですし、兼業農家なのでサラリーマンの収入もあるし、妻と共働きですから。
(ただし繁忙期は土日休日なし!)
自分で作ったコメ食って多少赤字でも満足ですよ。
でも次は無さそうだね。
江戸時代の暮らし向きや年収に思うこと!今と比べてどうだ?
江戸時代の武士の給料について、調べてきたのですが、とても興味深かったです。
いつの時代でも、貨幣価値って変わっていくもんですね~~
江戸時代の初めと、終わり頃ではどん位の差があったのかな~~と・
そういえば、小判の金の含有量もかなり減っていったというのを、見たことがあります。
我が家には
「一分銀」
があります。
この一分銀四個で一両だったようですね。
昔のお金のようで、やっはり角が、その形がちょっと変ですね。
これでよかったんでしょうな~~
一石=1両=12万円=150㎏=2.5俵
なのですが、今の時代は?
一俵で、今は約12,000円~15,000円です。
私の農家の出し値です。(JA買取金額)
*2024年の今年は20,000円前後でした‥私の出荷代金。
一時払い金は12,000円程度ですが、本生産で15,000円近くまで行くのですが、最近は下回っています。
生産者は、なかなか儲かりません。
私は先祖代々の、コメ農家ですが兼業農家で、今は田んぼがある以上は仕方がないかな~~と、そんな感じです。
江戸時代なら一石は約12万円で2.5俵ですから割ればいいのですね。(仮に12万円とすれば)
48,000円になります。
一俵あたり、その金額なら私の耕作面積でも、農業で食えていきます。
すごいですね。
時代ですね~~
*同じ江戸時代でも関が原以降と幕末では全く違うようですが。。仮にのお話。
食べることが、難しい時代と、現代のように食べるのは普通の飽食の時代と、でも、困難は分野が違えど、同じなのかな~~とも思います。
その時代時代での困難さは、種類が違うだけで同じなのかもしれませんね。
ちなみに、前述した地方格差ですが、やはりあったようです。
同じ給料でも、やはり地方は物価が安いので、暮らしやすかったと言われます。
これも、いつの時代も同じなんですな~~
勉強になりました。
・・・・・・・・・・
*私の主観を入れて書いてますので??な部分があってもお許しください。
ヘッダーの写真は愛機のフジの一眼で撮影の、松島四大観多聞山(偉観)の春の写真です。