伊達政宗の正妻と側室と子供は何人?名前とその後の処遇を解説!

有備館駅の伊達政宗像の写真
伊達政宗の正妻(正室)は「愛姫」(めごひめ)。側室は7人ほど。それぞれに子供がいて十男四女という記録。

・正室と側室の子供の人数と名前。
・子供の処遇とその後。
・記事内写真はゆかりの地。

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他にも、一男一女がいるようですが、わかる範囲で名前とその処遇を解説。

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伊達政宗の正室は「愛姫」(めごひめ)で子どもは三人!

青葉城址公園の伊達政宗像
(管理人撮影:青葉城址公園の伊達政宗像)

前置きです。

伊達政宗は、伊達家の代々でいえば「17代当主」の座ですが、実は
「仙台藩」
の始祖(初代藩主)になります。
生まれた当時は、出羽の国の米沢城が居城。
のちに、ここは上杉景勝の家臣の家老「直江兼続」が収め、関ケ原以後は上杉家が、治めました。

いずれ、仙台と言えば「伊達政宗公」で、居城は「青葉城」とも「仙台城」とも。
どうやら「青葉城」が正しいようです。

私の小学校の時の、修学旅行がこの青葉城と松島でした。
もう50年以上も前の事ですが・・宮城県在住なので、田舎に住んでいて仙台は都会でしたね~~

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正室は愛姫(めごひめ)で田村藩との政略結婚!

父は「田村清顕」氏で、田村藩(田村市)25代の当主です。
一人娘で、伊達氏の力を頼る、政略結婚のようでした。

子供は3人です。

長女五郎八姫:松平忠輝正室、忠輝改易後に離縁
次男忠宗:仙台藩第2代藩主。
五男宗綱:岩ヶ崎伊達家初代当主。(3万石):16歳で他界
八男男子:竹松丸7歳で死去

長女の「五郎八姫」は不運の方でしたね。
徳川家康公の六男でしたが、当初は伊達政宗公のとりなしもあり、出世街道まっしぐらでしたが、いかんせん実力が伴わず、素行も悪く・・
お家はお取りつぶしで、残念な結果に。

次男の「伊達忠宗」は、名前に徳川秀忠の一文字が。
期待の星で、二代目としては名君の誉れ高いお殿様だったようです。

五男の「伊達宗綱」は、現在の栗原市岩ケ崎の初代当主になります。
守役は「茂庭綱元」です。
が・・残念なことに、病にて16歳の若さで他界してしまいます。
かわいそうでしたね。

八男の竹松丸ですが、愛姫(めごひめ)の生家田村家の養嗣子にする、という約束があり、大事に育てられていたのですが、残念な結果でした。
誕生時に愛姫は42歳と言いますから、高齢出産だったんですね。

ところで「愛姫」の「めごひめ」の愛称ですが、この辺では、岩手県も含めて
「めごい」というのは「めんこい」で、標準語でいえば「かわいらしい」になります。

「お~~A子ちゃんってめんこいよな~~」

という、使い方ですね‥今も昔も変わりません。

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宇和島藩始祖の伊達秀宗の母は新造の方!

有備館の写真
(管理人撮影:有備館の写真)

側室の中でも、私が思うには筆頭の位置かと。
何せ、長男を授かった方ですから。

新造の方:側室飯坂宗康の二女
 長男伊達秀宗:宇和島藩初代藩主
 三男伊達宗清:飯坂宗康養子。吉岡伊達家当主。

特筆すべきは、この長男の「伊達秀宗」公ですね。
おそらく、伊達政宗公に似て、豪胆な方だったようです。
名君の誉れ高い方です。

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伊達政宗の側室のほかの方の名前と子供の待遇!

子供の名前がわかっていて、側室の方の名前もわかってる方を、以下に紹介します。
ずいぶんと居たんですね~~
さすが、英雄の誉れです。

祥光院の子供は四男宗泰で岩出山当主!

祥光院:摂津国西成郡に生まれる:出自は不明のようです。

  • 四男:伊達宗泰:初代岩出山城主

伊達政宗公は、仙台城(青葉城)築城の折、岩出山上に滞在していました。
そこに「岩出山城」があるのですが、現在の跡地に伊達政宗公の白い像が立っています。
これ結構大きいです。
以前、行ってみたのですが、ちょっと驚きました。

岩出山城下の、藩校跡が、いま「有備館」として、その庭園が公開されています。(上の写真)
写真は上の写真ですが、とてもきれいな場所なので、おすすめします。
私は秋の風景が好きなので、何度も行っています。(県内の地元なので・・)

勝女(かつめ):於勝の方(おかちのかた):法性院の子は十男宗勝!

一関藩は残念でしたが、後に田村藩として再功成ります。

於勝の方:側室法性院:伊達家譜代の家臣多田吉広の娘で、本名は勝子。
 十男伊達宗勝(だてむねかつ):陸奥国仙台藩支藩・陸奥一関藩主
 三女岑姫(みねひめ)涌谷伊達家の伊達宗実の正室

二人の子供がいます。
残念なことに「伊達宗勝」公の素行が悪く、一関藩は一代で改易になってしまいました。
その後、一関藩は仙台本藩領に復帰。
せっかく大名になったのにね~~
その後、一関は田村藩の再興になります。

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於山方の子は二男一女で岩ケ崎ゆかりの殿様!

岩ケ崎を託されたのですが・・

於山方:側室伊達家家臣で柴田郡船岡邑主の四保宗義(後に柴田宗義と改称)の娘で本名は睦子。
 二女牟宇姫(むうひめ)伊達家一門筆頭、石川宗敬の正室。
 六男宗信(岩ケ崎伊達家):24歳で早世
 七男宗高(村田伊達家当主):20歳で他界

「石川宗敬」公は、驚くことに12,000石とあります。
大名並みですね。
驚きました。

六男の「伊達宗信」公は、「伊達宗綱」公なき後の、岩ケ崎伊達家を継ぎました。
後見人は、そのまま「茂庭綱元」です。
しかし・・こちらも24歳にて早世。
残念です。
これで、岩ケ崎伊達家は、世継ぎがなく断絶になりました。

七男の「伊達宗高」公は、初代村田伊達家当主です。
しかしながら、大御所徳川秀忠公と、徳川家光公に随行して上洛。
不幸にも京都にて疱瘡を患い、他界。
なんとこちらも享年20歳でした。

於山方は、悲しかったでしょうね~~

阿茶の局(荘厳院)の子は九男宗実!

以下です。

阿茶の局:側室(荘厳院):柴田信恒の娘として生まれる。名は宏(弘)
 九男伊達宗実(だて むねざね):陸奥国仙台藩一門第二席・亘理伊達家2代当主

寛永16年(1639年)、宗実が亘理郡亘理城主・伊達成実の養嗣子に迎えられます。
勇将の伊達成実には、後継ぎがいなかったんですね~~
丁度よかった??
のかもしれません。
伊達一門の結束が、深まったのでしょうから。

妙伴(本寿院)の子は四女千菊姫!

以下です。

妙伴(本寿院):側室村上政重の娘で名は「妙」(たえ)または「妙子」(たえこ)
 四女千菊姫:丹後宮津藩主京極高国の正室となり、4男2女をもうけた。

しかしながら、悪政がたたり京極家は改易になってしまいました。
普通に納めていればいいのに、その立場を生かせなかったんですね~~
残念です。

愛妾の「香の前」の子は一男一女!

最後はこちら!

「香の前」
は通称で名は「種」と言ったそうです。
当初豊臣秀吉の側室でしたが、伊達政宗公に下賜し、そののち茂庭綱元の側室になる。

出身は父は、高田次郎右衛門でその長女として生まれる。
豊臣秀吉公から、美貌を認められて、香の前(香姫)もしくは、お種殿と呼ばれて、側室になったんだな。

子は一男一女

香の前:側室父高田次郎右衛門でその長女として生まれる。
 亘理 宗根(わたり むねもと)高清水亘理家初代当主。
 津多柴田郡船岡城主・原田宗資に嫁ぎ嫡男の宗輔を産んだ(この宗輔が伊達騒動で有名な原田甲斐である)

なるほど~~もみの木は残ったの、原田甲斐ですね~~
ここで登場です。

なお、このお二人の子は、茂庭綱元に「香の前」殿が、側室になる時に、連れ子になり戸籍上は茂庭綱元の実子として、扱われた。
が・・やはり、伊達政宗公のDNAは無視できずに、ともに城主クラスの扱いですね。

当然かと。

伊達政宗公の正室と側室との間の子供一覧のまとめ!

青葉城址公園の夜景
(管理人撮影:青菜城址公園の夜景)

わかっているだけで、歴史に残ってる実子の方や、正室や側室の方の名前を、まとめてみました。
全員で

「十男四女」

で14人です。
他に「香の前」との間の庶子に「一男一女」扱いは、茂庭綱元の実子ですが、二人おります。

以下のようにまとめてみました。

伊達政宗公の実子の名前と処遇の一覧!

以下のようです。

男子

長男伊達秀宗:宇和島藩初代藩主。
次男伊達忠宗:仙台藩第2代藩主。
三男伊達宗清:飯坂宗康養子。吉岡伊達家当主。
四男宗泰(だて むねやす)岩出山伊達家初代当主
五男宗綱:岩ヶ崎伊達家初代当主。
六男宗信(岩ケ崎伊達家)
七男宗高(村田伊達家当主)
八男男子:竹松丸7歳で早世
九男宗実(だて むねざね)陸奥国仙台藩一門第二席・亘理伊達家2代当主
十男伊達 宗勝(だて むねかつ):陸奥国仙台藩支藩・陸奥一関藩主

女子

長女五郎八姫:松平忠輝室、忠輝改易後に離縁
次女牟宇姫(むうひめ)伊達家一門筆頭、石川宗敬の正室。
三女岑姫(みねひめ)涌谷伊達家の伊達宗実の正室
四女千菊姫(せんぎくひめ)丹後宮津藩主京極高広の嫡子京極高国の正室

他に庶子

亘理 宗根(わたり むねもと)高清水亘理家初代当主。
津多柴田郡船岡城主・原田宗資に嫁ぎ嫡男の宗輔を産んだ

 

伊達政宗公の正室と側室の名前と出身の一覧!

以下のようです。

正室:愛姫:父は「田村清顕」氏で、田村藩(田村市)25代の当主。

側室は以下です。

新造の方飯坂宗康の二女
祥光院摂津国西成郡に生まれる:出自は不明のようです。
於勝の方(おかちのかた)法性院:伊達家譜代の家臣多田吉広の娘で、本名は勝子。
於山方伊達家家臣で柴田郡船岡邑主の四保宗義(後に柴田宗義と改称)の娘で本名は睦子
阿茶の局:荘厳院)柴田信恒の娘として生まれる。名は宏(弘)
妙伴(本寿院)村上政重の娘で名は「妙」(たえ)または「妙子」(たえこ)
香の前高田次郎右衛門でその長女

と言った、一覧です。
私が、調べたものですから、ほかにもいらっしゃるのかもしれませんが、わかる範囲です。
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伊達政宗公の家紋や名言と、宮城県内での3体の像について、実際の管理人撮影の写真を紹介しました。

伊達政宗の家紋と名言と遺訓!象の3体の写真紹介!墓所の写真紹介!

墓所の瑞鳳殿の写真も。

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伊達政宗公が生きた時代では普通のこと?感想など!

岩出山城址公園の伊達政宗像
(管理人撮影:岩出山城公園の伊達政宗像)

側室の中には、飯坂の局という方もいると、言われてますが、少しはっきりしないので、本稿では載せませんでしたが、新造の局とラップします。
もし「飯坂の局」が、実際に側室だったとしても、子供の記録があいまいで、どうもはっきりしていないようなので、ロマンですね。

上の記録で、大丈夫かと私個人的には思います。
また、NHK大河ドラマの中で、新造の方が「猫午前」と言われたり、外人の方の側室がいたりというのは、どうやらフィクションのようです。

宮城県民の伊達政宗公のイメージは?

「誇り高き方!」
ですね‥私にとっては。
「英雄」
です。

私は宮城県在住です。
伊達政宗公の、おそらくいわれの所以の場所については、多分有名どころは巡ってみました。

写真が趣味なので、あっちこっち行ってみましたが、有名どころでは

  • 1:青葉城址公園
    2:瑞巌寺(松島)
    3:瑞鳳殿

この三か所は、絶対に外せない、ゆかりの地ですね。

青葉城は、どんな城だったんでしょうかね~~
この高台の場所は、難攻不落の城だったに違いありませんね。
もし、戦に及んだ場合の事ですが・・実際は平和な世でしたね。

仙台の町が一望できます。
夜景なんぞは絶景ですね。

瑞巌寺は、歴代の伊達家の当主のお位牌が祭られてます。
以前、瑞巌寺が工事中での時に、特別拝観があって、行ってみてきました。
その大きさには度肝を抜かれましたね。

瑞鳳殿は、文字通り伊達政宗公の霊廟になります。
とても荘厳なもので、驚きます。
この三か所は、宮城の観光では、ぜひ訪れてほしいと思います。

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戦国時代の石高ランキングと、兵力の動員数の比較をしてみました。
伊達政宗公はどん位だ?

戦国時代の石高ランキング上位ベスト10は?石高に見る兵動員数!

織田信長公のこの名前と、そのあとの殊遇や人生について、わかる範囲ですがまとめてみました。

織田信長の正室と側室と子供は何人?息子と娘の嫁ぎ先やその後の人生!

天下布武の目前での、本能寺。
是非もなしとはいえ、無念だったかと。

*自分で調査した結果を書いてみました。何せ、時は戦国時代から江戸の時代に向かい過度期。
不明瞭なことも多々あるようですね。
ヘッダーの写真は、私が撮影した有備館駅にある、伊達政宗像の写真です。
この像は以前、仙台駅の今の待ち合わせ場所としては絶好の、ステンドグラス前にありました。

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