藤原清衡と奥州藤原氏の家系図!平泉中尊寺金色堂のミイラと年表!

鎌倉円覚寺の写真
奥州の覇者藤原清衡とは?
奥州藤原氏の系図と、家系図から人物像と波乱の人生を見ていきます。

  • ・奥州藤原氏と清衡氏の家系図。
    ・前九年の役と後三年の役の主役は?
    ・藤原清衡公のしたこと年表で。
    ・奥州平泉を写真で巡る。

 

https://kotobaimi.jp/wp-content/themes/be_tcd076/img/no-avatar.png

奥州平泉はその中心で平安京の次に栄えた都市でした!

スポンサーリンク

 

藤原清衡氏の系図!家系図から見る波乱万丈!

奥州藤原氏の祖は「藤原頼遠」という方は、陸奥の国に移住(または左遷)したと。
「平忠常の乱」
で、平側について、負けたので左遷で「多賀城府」の官人になったという伝えも。

その子が「藤原経清」です。
その子が
「藤原清衡」
ですね。

系図は以下になります。

奥州藤原氏系図

母は、「有加一乃末陪」で、当時の奥州で現在では宮城県や岩手県のあたりを領する、有力な豪族で
「安倍頼時」
の長女になります。
父「経清」は、南の守りを任される、有力な部下でした。

前九年の役とは?清衡の人生の転換点!

ここでは

  • ・前九年の役が起きた原因
    ・活躍した人

を、簡単に解説

前九年の役が起きた原因は安倍氏の傲慢から?

「安倍頼時」
の天下だった、この「奥州六郡」は、当時は「陸奥の国」と言ってました。
安倍氏は、なかなか傲慢なところがあって、任されていたのですが・・
いつの間にやら、この六郡の境に柵を設けたり、当時の国府は多賀城で、国府の
「藤原登任」(ふじわらのなりとう)
が催促しても、「賦貢(こうふ)」(税金)しないなど、徐々に険悪。

1051年(永承6年):前九年の役勃発

その場所がなんと~~
「玉造郡鬼切部」
というところで、現在は鬼首という地名。
以前、行ってみたことがあるのですが、いや~~これがぞくぞくします。
写真がどこかにありましたが、それはいずれ!

前九年の役で活躍した人!

戦が始まって、当初は安倍氏有利。
しかし、紆余曲折あって「安倍頼時」が矢の傷がもとで他界。
後を継いだのが、勇猛果敢な
「安倍貞任」

この方は、名将で語り草です。
一進一退の攻防が続き、幕府軍はのちに有名になる
「八幡太郎義家」
が登場。

決定打は、前九年の後に、母が再嫁する相手の、出羽の国の俘囚
「清原氏」
です。
兵約1万の援軍は決定的。

最後は「厨川柵」が陥落し、安倍氏は滅亡しました。
清衡の父「藤原経清」は、非業の最後。

この地は、現在
「前九年の役公園」
という、桜の名所になってます。
なんと、住所もこの近辺が、「前九年」になってるから、驚きます。

隠れた桜の名所ですよ~~~

前九年の役の後の清衡はどうなった?

母は、「藤原経清」の正室で、憎き「安倍頼時」娘。
本来ならば、母は女子なので、許されても血を引く
「清衡」
は命がないのですが・・

ところが、まさかの母が、この時の敵将「清原武則」の長男

「清原武貞」

に、再嫁することに。
普通はあり得ないことだと思うのですが、敵将の「清原氏」の情けだったのかもしれません。
同じ奥州の仲間ですから。

一命をとりとめて

「清原武貞」

の養子に。
この時「7歳」とあります。
しかし、「炎立つ」の確か作者の方の説明では、この時は妊娠中だったと。
なので、助かったと‥そういう話でなかったかな~~【そういう話もあるという事で・】

スポンサーリンク

後三年の役とは?清原氏の家督争いで勝利!

後三年の役は「清原氏」の家督相続の争いです。
「清原武則」
の息子は以下の三人。

  • 長男:真衡:前妻の子
    次男:清衡:本人
    三男:家衡:母が再婚後の子

・またまた紆余曲折があって、最初に落ちたのが
「長男:真衡」
が病死。
その後がなかなか決まらず、ここで
「源義家」(八幡太郎義家)
がお出ましになって、下した調停案が
「二人で折半」
なんだな。

しかし、不満の「家衡」は、清衡邸を急襲し、妻子共々全員亡き者に。
間一髪逃れた清衡は
「八幡太郎義家」
に、援助を申し出て、大挙して「家衡」を打ち取り
「奥州の覇者」
になったんだな。

この場合、出羽の「清原氏」の所領と、安倍氏の分と、広大な資産を引く継ぐことに。
まさしく「奥州の覇者」です。

藤原清衡氏の子供とその子孫のその後!


(wikipediaより)

「藤原清衡」公の、家系図は以下です。

藤原清衡公の家系図

長男は、清原氏の娘の子
「惟常」
です。
清衡公が亡くなって、基衡と家督争いが。
どうやら

  • ➀:清原派
    ➁:安倍派

での、二分の争いだったようにも感じます。
この辺は、出自で家臣団の争いもあるでしょうから。
なんか、合併した大手銀行を思いだします。

勝ったのは「基衡」で、家督を相続します。
奥州藤原氏の二代目になります。

他は、委細は判明しません。
母も不明で、やはりこんだけ昔のお話だと。地方は記録がないのですね。

**
wikipediaの情報をもとに、他も参考にして私が作成しました。
??な部分があっても、ご容赦ください。
参考という事で。

スポンサーリンク

藤原清衡氏のしたこと年表で!

「藤原清衡」
氏のしたことを年表形式で、以下の表にまとめてみました。

天喜4年(1056年)生誕:父:藤原経清:母:有加一乃末陪(安倍頼時娘)
康平5年(1062年)前九年の役終了:母が出羽の「清原武貞」と再婚(安倍氏滅亡の立役者いわば宿敵)
寛治元年(1087年)32歳:後三年の役終了で清衡が勝、名実ともに奥州の覇者になる。
その後当初の本拠地は江刺郡豊田館に構え勢力の拡大に努める
翌寛治7年(1093年)出羽国府の秋田城を襲撃する反乱が発生も翌年鎮圧。
寛治8年(1094年)陸奥の押領使拝領と推定
嘉保年中(1094年 – 1095年)磐井郡平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手。
1108年中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくる。
貿易宋王朝との貿易で一切経の輸入や北方貿易も行い繁栄。
大治3年(1127年)奥州平泉金色堂落慶
大治3年7月13日(1128年8月10日)没:73歳

その後、奥州藤原氏は、系図のように

  • 二代:基衡
    三代:秀衡
    四代:泰衡

と続き、残念ながら鎌倉殿との「奥州合戦」で、滅亡します。
「清衡公」
が、「清原氏」の家督を継いだのは32歳。
ほぼ40年で、一大帝国を作り上げたわけです。
・・・・・・・・・・
鎌倉殿の周辺の武将、源氏と平氏と奥州藤原氏などを、まとめてみました。

鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!

本ブログ内の、鎌倉時代の武将記事へのリンク集です。
・・・・・・・・

藤原清衡氏と源氏と平家と鎌倉殿との関連!

「藤原清衡」公
と、源氏の関係は、この時は全く以て良好。
何せ、後三年の役では、清衡氏の家督相続調停人が、なんと
「八幡太郎義家」
ですから。

「源義家」

のバックアップがあって、後三年の役で勝利し、清原氏の家督を相続し、母方(安倍氏)の旧領も悉く、手に入れたのですから、良好でした。

「清衡」
の時代には、大きな戦もなく、平和な時代でしたね。
鎌倉殿の「源頼朝」はこの義家から数えて、4代くらい後のお話。
平家は、まだまだ台頭していないので、歴史は奥州では、止まっていたのかも。

この奥州の平和が、今や世界遺産の

「奥州平泉」

を大きく発展させたのだと思います。
戦ばっかりでは、繁栄するどころか、戦費もかかりますから、衰退の一途かと。

ある意味、運がよかったのでは?

が・・都の方では、その時期には、歴史的には大きな事件が次々と。
朝廷に従順で、いさかいを好まず、平和主義者。

そんなイメージを、私は感じます。

奥州藤原氏のの本拠は世界遺産奥州平泉!

奥州藤原氏の本拠地は、「奥州平泉」。
現在の「平泉町」に、位置します。
世界遺産に登録されました。

中でも

  • ➀:中尊寺:円仁(慈覚大師)
    ➁:毛越寺:円仁(慈覚大師)

と言われますが、どうも定かではなさそうですが、実質再建したのは
「藤原清衡」公
です。
なお、その寺にあと二つ。

  • ➂:山寺:山形市
    ➃:松島瑞巌寺:宮城県

も、円仁(慈覚大師)の開山と言われて、東北の古寺巡礼
「四寺回廊」
として、御朱印など発行しています。
私も回りました。
その時の記事がこちら。

四寺回廊とは?東北みちのく古寺巡礼の山寺や瑞巌寺の御朱印は?

実際に4つの古寺を回って、御朱印をいただきました。
また、回ってみたいな~~と・

金色堂には奥州藤原3代のミイラ安置!

金色堂は、中尊寺から100m~ほど行ったところにあります。
すぐです。
写真は、次の項で紹介します。

私は大好きで、中尊寺は年に数回写真を撮影に行きます。

勿論、中は撮影禁止です。
解説の、パンフレットなどで、よく見る、真ん中の段の下に安置されています。

この調査の時の動画を、記念館で公開しています。
一般公開もその時したのですが、それを私の父と母が見に行ったのを覚えています。
多分今から40年以上前の事です。

金色堂の中尊寺金色堂須弥壇の金棺内には、「藤原4代」のミイラが安置されている。
ただし「泰衡」は種々あって、一部が収められている。

昭和の時代に、その調査が行われて、讃衡蔵(すぐ隣にある)では、多くの文化財品が展示してあります。
ぜひ、来たら見学してみてくださいね~~

・・・・・・・・・・
鎌倉殿の背景の、重要な役割を果たした武将を、思いつくままにまとめてみました。

鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!

木曽義仲(源義仲)の源氏の系図と、家系図からその子孫のその後など解説。

木曽義仲の源氏と子孫の家系図!最後と源頼朝の関係と鎌倉への貢献!

奥州藤原氏と、関係が深い、義経最後の地でもあります。

源義経の家系図と頼朝との関係!正室と静御前と子供と活躍の年表!

源義経の、平泉のゆかりの地など、写真で案内しました。
・・・・・・・・・・・

奥州平泉紀行!写真で世界遺産を紹介!

全てはもちろん無理ですが、一部だけでも、世界遺産を紹介します。

1:中尊寺

中尊寺の写真

2:金色堂

金色堂の写真

2-1:金色堂の御朱印

金色堂の御朱印の写真

3:金色堂覆い堂
今の覆い堂ではなく、元はこちらに入っていました。

金色堂の覆い堂

*中尊寺については、こちらで写真付きで、詳しく紹介しました。

中尊寺金色堂と世界遺産本堂の御朱印!駐車場と観光のアクセス情報!

4:毛越寺

毛越寺の写真

4-1:毛越寺の庭園:大泉が池の風景写真

毛越寺庭園の写真

5:高館義経堂
源義経の最後の場所だと言われています。

高館義経堂の写真

6:源義経の妻子:郷御前と女子の地蔵尊

千手院の源義経の郷御前と女子の墓。

他もたくさんあるのですが、こんなところで。
是非、東北においでの際は、足を運んでみてください。

*写真はすべて私の撮影です。

7:四寺回廊の御朱印の写真

四寺回廊の完了写真

4つの古寺が、すべて埋まりました。
とてもいい巡礼でした。
でも、車じゃ~~ちょっとね~~とは思います。

スポンサーリンク

奥州藤原氏の感想とまとめ!世界遺産は誇りだ!

「藤原清衡」公の人生はまさに
「波瀾万丈」
ですね。

しかし歴史とは、まさに不思議なもの。
「清原武貞」
氏は、清衡の母の出自の「安倍氏」を、朝廷方の
「源義家」「源頼義」
とともに、滅ぼした張本人。

清衡の母は「藤原経清」の妻で、その「藤原経清」は非業の最後。
その方基とも言うべき「清原氏」の息子と再婚????
今では考えられないのですが、これは全くの私見ですよ~~~

清原氏は、出羽の国(今の山形と秋田県あたり)を管轄する豪族。
安倍氏は、今の宮城岩手周辺を有する豪族。

前九年の役前までは、多分この二人は仲良し

ところが、何がどうなったか、詳しく書いたらきりがないのですが、戦が始まった。
「清原氏」は静観。
が・・しばらくすると、朝廷側(源頼義)から、やんやの催促と貢物と、多分脅しも。

これを断ると、今度は我が身か??
致し方なし・・で参戦。

自分のせいで「安倍氏」は滅んだ。
責任を痛感して、普通はその血を引くもの共々、なのですが、女子は問わずで、ちょうどいいか‥と、わが子と再婚させよう。
安倍氏には、これで何とか面目を・・

そんな思いだったかも。
武士の情け!!
を、私個人では、連想するんだよね~~

一族郎党・・が基本のところ、「清原氏」の参陣で、勝利を収めた源親子も、その懇願は断れず。

ここは都から遠いから、まいっか~~と。

この推測どうでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・
源頼朝の源氏の系図と、家系図で子孫のその後など。
したことなど年表で解説しました。

源頼朝の源氏宗家の家系図!妻と側室と子供の名前やしたこと年表で!

武田信義は甲斐源氏の祖です。

武田信義は甲斐源氏の祖!家系図と鎌倉幕府成立への貢献を年表で!

ここから、甲斐源氏が始まり、その何代目??
武田信玄が登場します。

・・・・・・・・
*ヘッダーの写真は、私が撮影した鎌倉の円覚寺の紅葉の写真です。

関連記事