武田信義は甲斐源氏の祖!家系図と鎌倉幕府成立への貢献を年表で!
武田信義とは? 甲斐源氏は河内源氏の祖、源頼義を祖先に持ち、八幡太郎義家の弟 「新羅三郎」(源義光) が祖先。
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武田信玄の祖先ですが、甲斐源氏は「源義光」が祖です。
Contents
武田信義と甲斐源氏の家系図!
甲斐源氏というか、源氏の奔流と傍流の系図です。
詳しくは、この流れからどんどん枝分かれしていきます。
河内源氏の祖は
「源頼信」
で、その大きな流れを、「河内源氏」と言います。
有名な「源義家」(八幡太郎義家)が、源氏の奔流と言われるゆえんです。
その弟が「源義光」(新羅三郎義光(しらぎ さぶろう よしみつ))という方。
馬術や弓に長けていて
- ➀武田流
➁小笠原流
の祖と言われる方。
武田信義の誕生年と父と母と兄弟!
「武田信義」
は以下の生誕です。
大治3年(1128年)8月15日、新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。
(wikipediaより)
参考までに、家系図を作成してみました。
「武田信義」
の兄弟は、たくさん。
15人の方の名前があるのですが、そのうち、現在判明の方だけをピックアップしてあります。
中に、父と兄弟の方も、息子になってる方もあるので、そういう方は除外しました。
兄がいるのですが、「逸見太郎光長」と兄弟。
一卵性双生児で「双子」です。
- 逸見太郎光長:巳刻に生まれ
武田信義:午刻に生まれる
なので、次男。
甲斐源氏は武田信義が祖!
父は「源清光」です。
が・・実は、ここが少し複雑です。
武田氏の誕生には、少し物語があります。
甲斐武田氏の名字の変遷!
以下に詳しく。
源義光(新羅三郎義光) 祖
↓
義清(3男):常陸国那珂郡武田郷に本拠「武田を名乗る?」
↓
清光:甲斐国巨摩郡市河荘に流罪(乱暴狼藉で)
↓ その後逸見荘(山梨県北杜市)に本拠
「逸見」氏を名乗る
光長(兄)
↓
逸見を継ぎ「逸見光長」
上の家系図で、光長は「逸見光長」です。
此方は兄なので、正当な家系として「逸見」を相続したんだと思います。
(想像)
弟の「信義」は、最初のおじいちゃんの「義清」の武田精を継いだんだな。
武田信義(甲斐源氏)の誕生!
「信義」
は、13歳で元服。
この時の場所が
「武田八幡宮」
ここで、幼名を龍光丸・勝千代と言った、名前を改名し
- 「武田太郎信義」
と、名を改めました。
名実ともに、甲斐源氏の「武田氏」が誕生したわけです。
その後「武田八幡神社」は、武田家の氏神になります。
武田信義の正室と子供とその後!
「武田信義」の正室は??
見当たらず。
しかしながら、妻がおらねば子はできませんから、当然いたんですが、情報がない。
子は5人のようです。
但し、4人までしか判明しません。
家督を継いだ「信光」が、「5男」ということですので、5人はいたかと。
- 長男:一条忠頼
次男:?
三男:板垣兼信
四男:有義
五男:信光
この辺は、家系図を参考にされたし。
二男の方は見当たらないのですが、いずれ家督を相続した
「信光」
が五男なので、空いてしまいました。
(お許しください)
武田信義は鎌倉幕府成立に果たした実績!
ここからが、「武田信義」が、鎌倉幕府成立に貢献した内容になります。
できるだけ、わかりやすくするために、表にして、年表形式にしてみました。
大治3年(1128年)8月15日 | この世に生誕 |
保延6年(1140年) | 13歳・武田八幡宮で元服 |
治承4年(1180年)4月頃 | 以仁王の令旨を戴いた旨、挙兵『山槐記』9月7日条には「義朝子伊豆を領す。武田太郎(信義)、甲斐国を領す」と記載 |
同年9月(信義53歳) | 信濃国伊那郡へ出兵して平家方の菅冠者を討ち諏訪社との提携 |
10月 | 鉢田の戦いで平家方の代官との戦いで勝利 |
11月9日 | 頼朝との連合軍で富士川の戦いにおいて進軍してきた平氏に勝利。 |
その後(この三者は源氏で同格) | 源頼朝、武田信義、源義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く |
養和元年(1181年) | 後白河法皇より信義を頼朝追討使に任じたという風聞。起請文書かされる。この辺から不穏! |
1184年3月20日 | 一の谷の戦いに参加 |
1185年4月25日 | 壇ノ浦の戦いに参加 平家の滅亡 |
文治2年(1186年)3月9日 | 享年59歳で病没 |
墓 | 山梨県韮崎市神山町鍋山の願成寺 |
なかなか、正確にはいきませんが、大きなところとしては、こんなところ。
「武田信義」
の没年は文治2年(1186年)3月9日と記されていますが、しかしながら、その後も
- ・建久元年(1190年)の頼朝上洛の隋兵
・建久5年(1194年)の東大寺造営や小笠懸の射手名が。
どうやら、可能性としてその後も生きていたかもしれません。
歴史の、表舞台は大きく鎌倉殿や、北条氏に動いてますから、その辺の事情(記録)もあったかと推察します。
源氏の嫡流がいつの間にか鎌倉幕府御家人!
挙兵当時は「源頼朝」も、兵力が少なく
- ・源頼朝
・木曽義仲
・武田信義
の、3源氏連合軍でしたが、次第に権力闘争でまずは「木曽義仲」が脱落。
「武田信義」
は、甲斐源氏の存続のために、「源頼朝」を、源氏の棟梁としてたて、その傍流、つまり
「鎌倉幕府御家人」
という、地位に甘んじることに。
もっともピンチは養和元年(1181年)。
「後白河法皇より信義を頼朝追討使に任じたという風聞。」
1181年(治承5年3月7日)
これには、頼朝が直接問い合わせ。
鎌倉に出向き、刀を差しだし、起請文(誓約書)を持ってきたため、許された・・が・・ここで立場が、上下関係が、確立した瞬間だったと思います。
「子々孫々に至るまで弓を引くことはない」
そんな感じですね。
源氏の棟梁は「源頼朝」で確定した瞬間かと。
武田信義の鎌倉幕府との関係とその後!
ここでは、鎌倉幕府成立後の甲斐源氏(武田信義)について。
「源頼朝」
にとっては、力が大きくなりすぎるものは、厄介な存在。
それは「奥州藤原氏」も同じこと。
大幅粛清された甲斐源氏!
「頼朝」
にとって、驚異の存在になりつつある、「甲斐源氏一派」はその後、粛清の嵐。
1184年(元暦元年)6月16日 | 嫡男の一条忠頼が謀反の疑いで誅殺 |
1190年(建久元年) | 三男の兼信違勅の罪で隠岐国配流。 |
1200年(正治2年) | 四男の有義・梶原景時の変に同心して逐電 |
甲斐源氏の祖の「武田信義」は、甲斐源氏一丸となって「鎌倉幕府」の成立、平家打倒で大きな成果を出すも、その巨大勢力ゆえに「粛清」され、大きく力を落としました。
「鎌倉幕府」
の中では、御家人という位置づけです。
その一方で「武田信義」の弟の
「加賀美遠光」
は、甲斐源氏でありながら、「信義」とは同一行動ではなく、当初より「頼朝」の陣に参加し、半ば家来の立場。
なので、こちらはのちに
「信濃の守」
に任官。
本来は、ここも甲斐源氏の領地だったのかと。
鎌倉幕府の御家人ってどんな存在?
さて・・御家人と言っても、元は源氏の嫡流とも。
それが家来の一種?
さて「御家人って?」
要は、幕府と主従関係を結んだ武士のこと。
これには、契約書のようなものがあったんだそうな。
- ➀:将軍に名簿(交名注進)を提出
➁:その後挨拶に行く。
そういう手順なんだそうな。
甲斐源氏なら、なんて書くんでしょうか?
- 氏名:武田信義
官位:従5位(これは適当です)
こんな感じのようです。
もしかしたら、承認の花押を押して、控えもあったとか‥なら、契約書らしいですね。(予想)
が‥後に大分簡素化されたようです。
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「武田信義」
という方は、とても機知に富んだ方のようですね。
うまく立ち回って、世界を冷静に見ていたように感じます。
その辺が「木曽義仲」とは、全く違ったところかもしれません。
存命中は、子供二人が相次いで、誅殺や沖ノ島に流されたり。
それでも「甲斐源氏」を存続は至上命題。
冷静な方でした。
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*ヘッダーの写真は、私が撮影した、奥州平泉の中尊寺金色堂の写真です。