織田信長の正室と側室と子供は何人?息子と娘の嫁ぎ先やその後の人生!

青葉城址公園の伊達政宗像

織田信長の正室は濃姫で、側室は最愛の「吉乃」はじめ総勢6名で、長男信忠含め11男11女だと言われています。
わかる範囲で、本能寺後の子供の処遇や人生、嫁ぎ先や、その後を調べてみたので紹介します。
ただ、織田の奔流で、大名で通したのは「織田信雄」のみのようです。
戦乱の世を生きた方の、人生は波乱ですね・まさに是非もなし・か!

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Contents

織田信長の正室は濃姫(帰蝶)!子供はいなかった?

 

信長と濃姫像

織田信長公の正室は「濃姫」です。
誰でもが知ってる?
かもしれませんね。
「麒麟が来る」
では、川口春奈さんが、その役を行い、好評でしたから。

父は美濃の当主、蝮の道三こと「斎藤道三」で油売りから、一国の城主になった、立志伝中の人物。
母は、斎藤道三の正室の「小見の方」と言われています。

「麒麟が来る」

では、明智光秀とは兄妹のような関係で書かれていますが、実際はどうなのでしょうか?
父と同じイメージで、大変に度胸がいい女性で、印象が作られているような、そんな気がします。

子供はいませんでした。

*一説には娘がいたという説があるようですが、定かではないようです。

 

生駒吉乃(いこま きつの)は信長公が一番愛した女性!

 

信長像の写真
(wikipediaより引用)

出自は尾張の豪族で「生駒家宗」の娘になります。
夫は、土田弥平次という方ですが、1556年の戦で亡くなっていました。
つまり・・夫を戦で亡くし、知り合った当時は「未亡人」・

その時「織田信長公」は20歳と言います。

信長公は、「吉乃」にはぞっこんで、周辺に正室に近い存在をまるで、PRするようにしていたそうな。
信長の居城の小牧山城で、若くして「39歳」で亡くなりました。(年齢には諸説あります)
信長公との間に、子供は2男1女の3人。
以下に子の処遇を紹介します。

 

吉乃と信長公の子供長男織田信忠のその後!

 

織田信忠は、織田信長公の子供の中では、一番の武将としては有能な人物で、1576年織田家の家督を相続。
甲州征伐では、総大将を務めています。
しかし・
1582年:本能寺の変
で、あえなく26歳で早世してしまいました。

 

吉乃と信長公の子供次男織田信雄のその後!

 

次男は「織田信雄」です。
この方はいろいろ立ち回りはうまかったと、私は思います。

最初は伊勢の大名で「北畠具房」に養子に入り、北畠家の当主になります。
が‥本能寺の変。
その後、織田姓に復帰したんだな。
この信雄は、その後の織田家の混乱では、「羽柴秀吉」方につきます。
ここが、3男の「信孝」との明暗でした。

大坂夏の陣では今度は「徳川家康」に使えます。
その後、天寿を全うして「73歳」まで生きました。
家康公から功績で

「大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられる。」

とあり、江戸時代大名として存続
織田家の潮流で、大名として存続したのは「織田信雄」のみです。

 

吉乃と信長公の長女徳姫のその後!

 

長女として徳姫が誕生しています。
驚きましたが徳川家康の長男「松平信康」の側室に入っています。
信康公との間に、二人の女の子が誕生しています。
信康には「築山殿」という正室があって、政略的に婚約させたんですな~~

1579年松平信康は謀反の疑いで自害。
その後、清洲に在住。
徳川政権樹立時に、家康公から2千石の知行を与えられ、晩年は京都で過ごしたとあります。

 

吉乃の菩提寺久昌寺が取り壊しに!630年以上の歴史に幕!

 

久昌寺の写真
(久昌寺の写真:wikipediaより)

信長公が一番愛した女性「吉乃」の墓がある

「久昌寺」

が、近く取り壊されるというニュースです。
歴史ファンには、ちょっと残念なニュースですね。
今のうちならまだ見れます。
アクセスは以下。

こういう歴史があります。

至徳元年(1384年)に禅喜寺を創建したのが始まりで、その後寺号を龍徳寺に改称している。生駒氏が大和から移住してきた際に菩提寺となった。織田信長の側室であった生駒吉乃が永禄9年(1566年)に病没した際に、「久庵桂昌大禅定尼」の法名でこの寺にまつったことから、寺号が久昌寺に改められた。
(wikipediaより)

現在の生駒さんは、宗教法人役員をされていて、弟19代生駒家当主として、いらっしゃるんですね。
これは驚きです。

歴史の明かりが、一つ消えるようで、少し寂しいですね。

 

坂氏は三男織田信孝の母!

 

清洲城の写真

出自は不明です。
が・・伊勢の豪族の娘であることはわかっているようです。
信孝が伊勢の神戸氏の養子に入ったことで、明白かと。

1558年に、3男の
「織田信孝」
が、誕生しています。

 

坂氏(さかし)と信長公の三男信孝のその後!

 

「本能寺の変」
の後に織田家は柴田勝家と羽柴秀吉側にわかれます。
柴田勝家が「織田信孝」を後継に押すも、戦になり「賤ヶ岳の戦い」で敗れてしまいます。
信孝もこれで、25歳で早世してしまいます。

権力闘争に敗れた、そんなことかと思います。
ちなみにこの時に権力闘争で、羽柴秀吉に跡継ぎに押された織田信忠の長男の
「三法師」
ですが、豊臣政権下では、1大名として使えています。
しかし天下分け目の関ヶ原の戦では、西軍。
その後改易され、高野山に流罪とされ26歳で、この世を去りました。

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養観院の子供は一男一女!

 

出自は不明です。
本能寺の変の後、4男の羽柴秀勝が、丹波亀山城主になると、そこに移り住んだと言われています。
病弱で体が弱かった、羽柴秀勝がなくなると、京都に移り住み名前のような
「養観院」
を名乗り、出家したとあります。

側室で子供は二人です。

 

養観院と信長公の四男秀勝のその後!

 

四男の「織田秀勝」は、羽柴秀吉がこの石松丸秀勝を亡くしたことで、羽柴家の養子に入り
「羽柴秀勝」
を名乗ります。
「本能寺の変」
の後の清洲会議で、丹波亀山城を与えられ、そこの城主となります。
しかし、病気がちなため亀山城で病死したとあります。

 

養観院と信長公の娘相応院のその後!

 

織田信長公にすれば「次女」になります。
1569年、蒲生氏郷に嫁ぎます。
何と蒲生氏郷はなくなった後に、豊臣秀吉は「相応院」を側室に迎える算段。
しかし、相応院は貞節を守り、出家したため断念。
なぜか、この時期蒲生家は92万石から、18万石に減らされます。

これが原因かもしれませんね。(一部ではそういわれています)

 

お鍋の方の子は二男一女!

 

清洲城の写真

出自は近江の国の土豪で、高畑源十郎の娘というのが定説です。
お鍋の方は、六角家の家臣で「小倉実房」に嫁いでいて、そちらにも二人の男児がいます。

夫の小倉氏は、信長に内応した罪で、六角氏に滅ぼされます。
その後、内応先の「織田信長公」を頼り岐阜へ。
側室になったと言われています。

子供は
「織田信高」
「織田信吉」
「於振」
の三人。

晩年は、豊臣秀吉の正室の「ねね」の方の、側近筆頭として仕えたとあります。
これは、初耳でした。
驚きました。

 

お鍋の方と信長公の七男信高のその後!

 

「織田信高」

は信長公の7男になります。

本能寺の変で「織田信長公」の死後は、美濃大垣城の「氏家行広」に養育されたとあります。
1591年、近江の国に秀吉より知行を与えられています。

しかしながら、享年は27歳という説や、その後の事が確たる情報が、無くて確定しないようですね。

 

お鍋の方と信長公の八男信吉のその後!

 

信長公の八男になります。
委細はわかりませんが、関ケ原の戦いでは西軍に属したようです。
したがって、改易。
京都にて43歳にて没したと、そういった資料があるようです。

 

お鍋の方と信長公の六女於振(おふり)のその後!

 

「於振(おふり)」
の方は、信長公の七女になります。
水野忠胤の正室として嫁ぎます。
しかし、1609年に刀傷沙汰があり、水野藩1万石を改易して他界。

その後、「於振(おふり)」の方は、織田信包の家臣である佐治一成の嫁になったという事です。
佐治一成氏という方は、驚くことに徳川秀忠公の正室の
「江」
の方が、先に嫁いだ方のようです。
佐治氏は、知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族であり、そこを追われた際に、「江」とは離縁したといわれているようです。
その後、織田信包氏の支配する、伊勢に身を寄せ家臣になったと。

そして、「於振(おふり)」の方と再婚。

人生ですな~~とは、戦乱の世ですから
「是非もなし!」
ですね。

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慈徳院の方の子は三の丸殿!

 

清洲城の写真

出自は、詳細は分かっていないが、「滝川一益」の親族と言われているようです。
信長公一番のお気に入りの
「吉乃」
の方の、長男「信忠」の乳母を務めていて、信長公の側室になったと。

当時は、乳母が側室になるのは、普通にあり得ることだったといいます。
しかし、逆の立場では、女性の感情としては、どうでしょうか?

さて??

 

慈徳院の方と信長公の八女 三の丸殿のその後!

 

慈徳院の方の子の「三の丸殿」は信長公にすれば「八女」になります。
豊臣秀吉の側室になります。
伏見城の「三の丸」で過ごしたことから、そういわれたようです。

豊臣秀吉の、花見の席での女性の順位(序列)から見ると

正室→淀殿→松の丸→三の丸

で序列4位なんだそうな。
そんなものもあるんですね‥驚きました。

秀吉の死後は、「二条昭実」の継室に入ります。
が・・この「二条昭実」さんという方は、とんでもない方ですね。
豊臣秀吉が、関白になる時の、関白職。
つまりは、豊臣秀吉が「関白」になるために「二条昭実」が関白職を辞したわけです。

二条家は「五摂家」の一つで、関白職を窺う家柄。
その後、秀吉死後の1615年に徳川政権下で、関白職に復帰しています。

 

土方氏の子は九男信貞!

 

信長公の側室で九男の
「信貞」
の母である。
出自は、土方雄久の娘とも青山某の息女と記されている。

土方雄久は、越中布市藩主などを経たが、主に「織田信雄」に仕えたとあります。
父の代からの織田家の家臣。
が・・土方氏単独では、源頼親に始まる大和源氏(宇野氏)の流れを汲む家柄とあります。

残念ながら、最後はわからずじまいです。

 

土方氏と信長公の九男の信貞のその後!

 

「本能寺の変」
の後、信貞は信雄の家臣で、埴原長久(加賀守)に養育されたとあります。
秀吉より1000石の知行を近江に。
関ケ原では西軍に、しかし戦後に改易。
しかし、恩赦で家康公にお召し抱えに。
最後は徳川家の家臣として没:享年51歳。

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同じく徳川家康公の、正室や側室や子供の人数や、その後の処遇などをまとめてみました。

徳川家康の子供の数は何人?母親(側室)の名前と明治維新まで続いた?

伊達政宗の正室や、側室やその後の子供の処遇などをまとめてみました。

伊達政宗の正妻と側室と子供は何人?名前とその後の処遇はどうだ?

とても興味深かったですね~~地元なので。

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側室不明での子供はほかに四男七女!名前と処遇のまとめ!

 

岐阜城の写真

他に、側室の誰かがわかっていない方が、四男七女いるようです。
もしかしたら、側室の方がもっといたのか、それとも同じ側室の方の子だったのかもしれません。

いずれ、不明なので、不明のままにしておきました。

 

母不明の信長公の五男の勝長のその後!

 

信長公の五男「織田勝長」の母は、不明です。
正確な名は
「織田源三郎信房」
と言います。
幼少で、養子に出されます。
その先は美濃 岩村城の遠山氏。

武田に支配されたために、武田信玄の人質として7年、甲斐で暮らす。
その後、織田家に返還。

本能寺の変の時に「織田信忠」に同行していて、明智軍との交戦で討ち死にしたと記録されています。

 

母不明の信長公の六男の信秀のその後!

 

母は不明です。
驚くことに、信長公の父の「信秀」と同じ名前。
これっていいの?
そうも思うのですが、もしかしたらよほど、期待していたのかもしれません。

本能寺の変では「仏照寺」に逃れていたことが記されています。
秀吉に仕えて、近江の国栗田郡に所領をいただいていたようですね。

文禄の役で兵300率いて参陣とあります。
没年不詳です。

 

母不明の信長公の十男の信好のその後!

 

母は不明です。
他の兄弟同様に、近江の国に知行が与えられていたようで、秀吉に仕えていたようです。
委細は不明です。

 

母不明の信長公の十一男の長次のその後!

 

母親は不明です。
関ヶ原の戦で、兄の「信吉」とともに、西軍として参戦。
あえなく戦死したとあります。

父親が偉大であることを考えると、なんとも悲しいものだと思います。

 

母不明の信長公の三女の永姫(えいひめ)のその後!

 

母親は不明です。
しかし、この「永姫(えいひめ)」は運がいいというか、出世でしたね。
前田利家の嫡男の「利長」の正室に嫁ぎます。
本能寺の変時には、利長は上洛途中でしたが、永姫(えいひめ)を旧前田領に(尾張内)避難させたとあります。

関ケ原の時点では、徳川家康公にさんざんコケにされてましたが、もともとはかなり優秀だったのかもしれません。
晩年は出家して「玉泉院」と称して、金沢で過ごしたようですね。

子はなかったようです。

 

母不明の信長公の四女の報恩院のその後!

 

信長公の四女「報恩院」の嫁ぎ先は
「丹羽長重」
です。
1580年に、縁組が成立。
父は丹羽長秀です。
関ケ原では西軍に加担したので、いったんは改易になります。
その後、復活。
江戸時代初期に、白河10万700石を賜り、大名として最後まで全うした。
没年:1637年
「報恩院」はその後、16年生き80歳で死去したとあります。
天寿を全うしましたね。

 

母不明の信長公の五女の秀子(ひでこ)のその後!

 

母不明。
信長の六女になります。

秀子は「筒井定次」に嫁いでいます。
筒井定次は、伊賀の国の筒井順慶に子がなかったことから、一族から養子に入り、筒井家を継承。
1578年輿入れとあります。
関ケ原では、徳川方について戦ったようです。
その後、伊賀の国の所領を安堵されて、伊賀の守に任じられましたが、重心のチクリによって、改易。
残念な結末でした。

 

母不明の信長公の七女の源光院のその後!

 

母は不明です。

嫁ぎ先は万里小路充房の継室です。
秀吉のあっせんによると言われています。

万里小路 充房(までのこうじ あつふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿。官位は従二位・権大納言。万里小路家13代当主。
(wikipediaより引用)

こういう方に嫁いだんですね。
しかし、万里小路充房さんは、最後は詰め腹を切らされる形で、丹波国篠山に流罪になったようです。

 

母不明の信長公の九女の鶴姫(つるひめ)のその後!

 

母不明。

中川秀政の正室です。
う~~ん・・この中川秀政氏という方、まずい最後だったな~~
播磨国三木13万石まで行ったのですが、文禄の役で「鷹狩」の最中に、敵の待ち伏せにあって、あえなく戦死。
25歳。
これはお取りつぶしの沙汰もやむなしですが、恩情によりお家は継続。

 

母不明の信長公の十女の月明院(げつみょういん)のその後!

 

母不明、信長公の十一女です。
嫁ぎ先は公家の
「徳大寺実久」
の正室です。

徳大寺公維の外孫に当たるため、公維の養子に入って徳大寺家の名跡を継いだ。天正14年(1586年)従五位上に叙爵。
(wikipediaより引用)

こういう方です。
が・・この方は早世でした・・34歳。
最終の資格は「権中納言」です。

 

母不明の信長公の十一女の慈眼院(じげんいん)のその後!

 

母は不明です。
1580年に、織田と北条の友好のしるしとして、北条氏直との縁組が成立したのですが「本能寺の変」で振り出しに。
なかなか謎のある方です。

その後の人生は全く、履歴がないんだな~
しかし、没年は1641年とあります。
しかも
法名は慈眼院華渓宗春大姉。墓所は神奈川県小田原市足柄下郡の香林寺とあるのですが、現在の香林寺には、墓も位牌もないそうな・・???

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織田信長公の正室と側室と子供の名前のまとめ!

 

安土城の石段後

以下のように名前と子供を関連付けて表にしてみました。
子供を優先です。

 

織田信長公の正室と側室の一覧!

 

以下のようです。

正室:濃姫(帰蝶):美濃 斎藤道三の娘

側室

  • 1:生駒吉乃(いこま きつの):生駒家宗の娘
    2:坂氏(さかし):出自不詳:伊勢の豪族の娘
    3:養観院:出自不詳
    4:お鍋の方:高畑源十郎の娘
    5:慈徳院:出自不詳:滝川一益の親族かも・
    6:土方氏:土方雄久の娘(諸説あり)

側室の一覧は上の通りです。
以外にも、歴史的にわかっていない方もいるかもしれません。
母がわからない子が、以下に示すくらい存在するのですから。

 

織田信長公の正室と側室の子供のその後の処遇の一覧!

 

以下のようにまとめてみました。

男子

  • 長男:信忠:吉乃:本能寺で戦死
    次男:信雄:吉乃:5万石で存続
    三男:信孝:坂氏:賤ヶ岳の戦いで早世
    四男:秀勝:養観院:亀山城で病死
    五男:勝長:不明:本能寺で戦死
    六男:信秀:不明:文禄の役の記載あるも没年不詳
    七男:信高:お鍋の方:享年27歳
    八男:信吉:お鍋の方:関ケ原で西軍その後49歳で没
    九男:信貞:土方氏:徳川家の家臣として没:享年51歳。
    十男:信好:不明:委細不明
    十一男:長次:不明:関ケ原で西軍での戦死

女子

  • 長女:徳姫:吉乃:松平信康
    次女:相応院:養観院:蒲生氏郷
    三女:永姫:不明:前田利長
    四女:報恩院:不明:丹羽長重
    五女:秀子:不明:万里小路充房
    六女:於振:お鍋の方:水野忠胤
    七女:源光院:不明:万里小路充房
    八女:三の丸殿:慈徳院:秀吉の側室から二条昭実の継室
    九女:鶴姫:不明:中川秀政
    十女:月明院:不明:徳大寺実久
    十一女:慈眼院:不明:北条氏なと婚約も解消後は不明

上の一覧で、左から

順番→子の名前:側室(母)→その後(嫁ぎ先や処遇)

です。
*調べていて、なかなかわからない部分が多かったです。
不明な個所もあると思いますが、ほぼこんなところという事で。
自分で調べて書いていて、緒度信長という方は、とてもバイタリティーがあって、とても惜しい人だったな~~と思います。

天下布武は目前で無念・・是非もなし!

・・・・・・・・・・・・・
戦国時代の石高ランキングです。
関ケ原以前と後で分けてランキングにしてみました。

戦国時代の石高ランキング上位ベスト10は?石高に見る兵動員数!

徳川家康公の石高の増え方の推移です。

徳川家康の石高の推移と増え方を歴史の年表で!幕府開始時は幾ら?

半端ない増え方です。
さすが天下人ですね~~真の将軍かと。

*歴史的に明白なこともあれば。不確定なことも多くありました。
諸説ある事案も。
参考程度に見ていただけると、よろしいかと。
ヘッダーの写真は、私が撮影した地元宮城県の英雄「伊達政宗」公の、仙台城址公園の銅像です。

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