今川氏真の正室と側室と子の家系図と子孫その後!辞世の句と墓所!

今川氏真は「今川義元」の嫡男で後を継ぎますが一度も戦での勝利はありませんでした。

  • ➀:正室と側室と子の名前と家系図。
    ➁:子孫その後と江戸時代。
    ➂:戦国時代にしたこと年表で解説。
    ➃:辞世の句と墓所と家紋その後の評価。
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悲運とはいえ武将に似合わず文化人でした!

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今川氏真の家系図から見る正室・側室と子供の名前


(wikipediaより)

「今川氏真」
人生は「桶狭間の戦い」で大きく狂いました。
「今川氏」
は「清和源氏足利氏」の支流に当たります。

今川氏真の家系図!正室側室と子供の名前!

「今川氏真」
の家系図は以下です。

今川氏真の家系図
(種々の情報をもとに管理人作成)

その後も含めて表にしてみました。

正室:早川殿北条氏康娘
 長男:範以京都において病没:38歳:範英(のち直房)は徳川幕府高家旗本に取り立てられる。
 次男:品川高久上野国碓氷郡内において1000石:品川に住んだ:嫡男は徳川幕府高家旗本。
 長女吉良義定室
側室:庵原忠康娘
母不明
   男子西尾安信:慶長18年(1613年)11月3日没
   四男(末子)澄存:熊野若王子住職・熊野三山修験道本山奉行となり、承応元年(1652年)に没
猶子北条氏直
  • 正室:早川殿:北条氏康娘
    側室:庵原忠康娘
    子供:五男一女
    猶子:北条氏直

「桶狭間の戦い」
以降駿河・遠江は「武田信玄」と「徳川家康」による侵攻を受けて
「今川氏」
は滅亡。

一時期北条氏の庇護を受けるも最終的に
「徳川氏」
の庇護のもと「高家旗本」で存続します。

が・それは「今川氏真」の孫の
「範英(のち直房)」
になってから。

今川氏真の子孫その後の処遇!江戸時代は?

小田原城

「今川氏真」(今川家:12代)
の家系図を参考にしてください。
以下にまとめてみました。

今川氏真:今川家12代慶長19年:1615年没:享年77歳
今川 範以:今川家13代慶長12年:1607年:38歳で病没:終生父とともに行動
今川直房:今川家14代祖父の家禄:500石を継ぐ
 元和2年:1616年武蔵多摩郡井草村他3か所に500石加増:1000石になる
 寛永13年:1636年従五位下・侍従に叙任
 承応2年:1653年左近衛少将に任ぜられる:今川家では初の叙任
直房は「高家今川家の祖」であり、今川氏中興の祖として子孫から崇められる
  以後江戸時代は徳川高家として存続
今川 範叙:今川家23代明治維新:残念ながらいこは男系直系は絶家したとあります。

「今川氏真」
の孫「今川直房」という方。
父「範以」没後母が公家の
「大炊御門経頼」
と再婚したとあります。

この時代は祖父「今川氏真」と暮らしたとありますが、同じ京都で交流があったと思うのが常識かと。
その後「氏真」死去で家禄500石相続。
将軍家拝謁など、勿論実力がないとこうはいきません。

その後江戸時代はそのまま高家で維持。
しかし明治維新での最後の今川家の当主

「今川 範叙」(のりのぶ)

氏の時に、男系は絶えたとあります。
実に悲しいですね~~

徳川幕府(江戸幕府)における「高家」とは?何をする役職?


(wikipediaより)

「高家」とは?

  • ➀:制度の成り立ちの歴史
    ➁:どんなことをする方
    ➂:どのくらいの方がいたか?

について解説。

徳川家康公将軍宣下の儀式が起源!なぜ高家は必要だった?

「高家」
の起源は「徳川家康公」の将軍宣下の儀式(式典作法)を
「大沢基宿」
に管掌させたのが始まりと言われます。

この時に「高家」という制度はなかったと。
そののち

慶長13年(1608年)12月24日
「吉良義弥」
が従五位下侍従・左兵衛督に叙任され職務に加算。
これで担当は二名になります。

ここで上記の家系図で
「今川氏真」
の娘は「吉良義定」に嫁いでいます。
「吉良義弥」
はその子になります。

つながっていくんですね~~

いずれこの日

「慶長13年(1608年)12月24日」

を「高家」制度の始まりとも言われるようですね。

他には
元和元年:1615年
徳川秀忠が足利一門の

  • ➀:石橋家
    ➁:吉良家
    ➂:今川家

の3家を高家の始まりとする説もありますが
「石橋家」
というのは存在しないのだと。(???)

「今川直房」
が「東照宮」の「宮」の使用を朝廷より認めてもらったことの功績。
それにより
「左近衛少将」
に任じられます。

今川氏はやはりこの場面では一役上に感じます。

高家は江戸時代には何家あった?

当初は

  • ➁:吉良家
    ➂:今川家

が有力な高家でしたが、その後公家の
「二・三男の子孫」
も加わり最終的には安永9年(1780年)には
「26家」
となったとあります。
幕末迄この数は維持されたと。

「殿中でござる」

の浅野内匠頭が「吉良上野介」に切りかかったのはこの
「作法」
が原因だったと。
これで納得した感があります。

高家はこの件で。

「今川氏真」の戦国時代の功績!したこと年表で解説

掛川城の写真

「今川氏真」
の戦国時代にしたことを年表にしてみました。

天文7年:1538年嫡子として誕生
天文23年:1554年北条氏康の長女・早川殿と結婚
永禄元年:1558年正式文書発給がありこの時期に家督相続が一般的な見解
永禄3年:1560年「桶狭間の戦い」で父義元戦死
徳川家康公に絶縁され武田氏の脅威もあり混乱
永禄7年:1564年東三河の拠点である吉田城が開城:三河から全撤退
永禄9年:1566年曳馬城開城
永禄10年:1567年『富士見道記』では領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していると
    7月風流踊が流行し、翌年の夏にも再発:氏真自ら太鼓を叩いて興じた
永禄10年:1567年武田義信廃嫡で婚姻関係解消
永禄11年:1568年甲駿同盟破綻:同時に信玄駿河に侵攻
  12月13日今川軍潰走し駿府も占領される:掛川城に逃れる
同時に「徳川家康」軍が遠江に侵攻する
  12月27日掛川城包囲
永禄12年:1569年掛川城を開城:氏真・家康・氏康の盟約:駿河再び制圧時には氏真を国主に
実際は「掛川城」開城で「今川氏」の大名としての滅亡と認識されます。
 同年氏真夫妻は小田原に入り早川に屋敷を。
永禄12年:1569年「氏真」に男子がいないことから氏康嫡男国王丸(氏直)猶子に駿河を譲ることに合意
同時に「氏真」は家督を国王丸に譲位して実態は「隠居」の身。
元亀2年:1571年駿河に残ってる家臣団もほとんど武田徳川に降伏し駿河の支配回復は夢のまた夢となる
元亀2年:1571年北条氏康没
元亀3年:1572年家康公の庇護に入る。また家康公にとって旧国主の保護は駿河統治に有利
天正3年:1575年詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』
天正3年:1575年宗誾(そうぎん)署名の文書から剃髪した可能性
天正4年:1576年牧野城主
天正11年:1583年近衛前久が浜松を訪れた際家康公と饗応
天正19年:1591年このころまでに京都に移り住み:仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つ
氏真の生活費は「豊臣秀吉」「徳川家康」公から出資されたと
慶長3年:1598年品川高久が徳川秀忠に出仕
慶長12年:1607年長男・範以が京都で没
慶長16年:1611年範英(直房)が徳川秀忠に出仕:この方高家として出世します
慶長17年:1612年近江国野洲郡長島村500石安堵
家康公と面会:品川に屋敷をいただく:その後江戸に移住
慶長19年:1615年12月28日:江戸で死去:享年77歳

「波瀾万丈」
の人生でした。
「徳川家康公」
は大変な方ですね‥やはり。
元「国主」である
「今川氏真」
を厚遇しました。

しかも、公家や宣下の饗応に際して明らかに利用した節があります。
更には、「旧国主」を城主にしたり、国人はやはり従います。
国を治める神髄をよ~く~~しってる方(名君)だったな~~と
「納得」
した次第。

今川氏真の家紋「丸の内に二つ引両」!墓所は「宝珠山観泉寺」!

「今川氏真」(今川氏)の

  • ➀:家紋と由来
    ➁:墓所の紹介

について解説。

「今川氏真」の家紋は「丸の内に二つ引両」

「今川氏真」
の祖先は支流ですが、
「清和源氏足利流れ」
です。
上の、今川家系図で見るように
「足利義氏」
からの別れで吉良氏の次の家格。
(*ここでも吉良氏との関係が出てきます)

「丸の内に二つ引両」

です。
こちら。

今川家家紋

もう一つ、戦の際の重要な
「馬印」
此方は

「赤鳥」

という紋様。
以下。

馬印赤鳥の写真

「赤鳥」
の由来は、当時の今川家当主
「今川範国」
が、1337年に駿府(静岡)の浅間神社に参拝した際、お告げが‥

「赤い鳥と共に戦うべし」

その時に今川軍が、所持していた「笠符」が、梅野家を救うための
「垢取り」
だったために、語呂合わせで縁起がいいと。

そのため、この赤鳥紋も家紋の一つ。
馬印にも用いて、大分思い入れがあったようです。

*上記内容私の記事
今川義元の家系図と子孫その後!年表で領地と桶狭間の戦い詳しく!
より引用しました。

「今川氏真」の「辞世の句」と墓所は「宝珠山観泉寺!

「今川氏真」
が亡くなったのは
慶長19年:1615年:享年77歳
です。

この時代の方にしては長生きだったんですね。
場所はおそらくですが
「品川」
の屋敷ではないかな~~と。
(家康公よりそこに屋敷を賜ってますので)

辞世の句は以下。

なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の咎にして

なかなかこれは感じいるものがあります。

墓所は当初
「江戸市谷の萬昌院」
でしたが移転に伴い

「宝珠山観泉寺」

に移されたと。

観泉寺の写真

マップは以下。

住所は以下です。
〒167-0035 東京都杉並区今川2丁目16−1

今川家累代の墓所でもあります。

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今川氏真にまつわる逸話!これこそ戦国文化人の証!

掛川城の写真

「今川氏真」
という方は「戦国時代」の武将にはやはり不適だったのいかな~~とも思います。
人物を評した著作はどれも武将や支配者としては
「否定的」
なものが多いですから。
が・・秀でるものが‥以下に続きます。

今川氏真の武将としての評価

「今川氏真」
を評論した書籍

➀:随筆『閑なるあまり:松平定信著

記載内容

「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」

➁:『徳川実紀』

記載内容

「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」

➂:『甲陽軍鑑』品第十一記載
記載内容

「我が国を亡し我が家を破る大将」

かなり辛辣な表現です。
ちょっと書けないような内容もあるのですが、一般的には
「暗愚な武将」
のイメージとして書かれています。

今川氏真の文化人としての評価と才能

「文化人」
としては?

和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人

晩年は今日に住み公家や和歌や俳人との交流で
「今川家代々」
の公家文化の高い能力を備えていたという事がうかがえます。

結果として、武人として大成しなくとも子孫にその文化を継承することで、江戸の平時に適応する
「高家」
として存続することができたのですから。

戦国と平和な時代。
生きる時代がちょっと違ったのかな~~という印象。

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織田信長公との謁見!蹴鞠を披露する

『信長公記』の記載・

天正3年1575年3月16日
京都の相国寺で信長公と会見。

信長公は父の仇。
その信長公が「氏真」に蹴鞠を所望。
20日に相国寺において公家達と共に信長に蹴鞠を披露していると。

「氏真」
の胸中はどうだったのかな~~と。
察するに余りあるのですが、この行為に至るのは並の心臓ではなさそうにも感じます。

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「今川氏真」の感想とまとめ

「今川氏真」公の戦国と江戸時代初期に生きた時代を
「駆け足」
で紹介してきました。

評価は武人としては大成しませんでしたが、文化人としては
「高家」
の基礎を持っていた方と推察します

後の江戸年間には、立派に高家で維持されていきました。
「今川義元」公
の「桶狭間の戦い」はショックな出来事。

優秀な武将はこんな場面での
「危機対応」
がやはり上手い。
臨機応変に動けるシナリオをたくさん持ってるように感じます。

もちろん、向いてる方もいれば向いていない方も。
「今川氏真」
は、それにはいまいちだったんでしょうね~~

この歴史の結果から、自分は何を学ぶべきか?
それが、歴史を好きな方なら大抵の場合考えるんだべな~~と。
わたしなら??

さて??

皆さんは如何ですか?
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*ヘッダーの写真は私が撮影した、松島西行戻しの松公園から見た福浦橋の景色です。

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